ポポロ通信舎

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天国ヨッパライ風「謝罪」論

2015年08月22日 | 教育・文化


昨日の文化放送、大竹まことのラジオ番組で精神科医で元フォーク歌手の北山修が「安倍首相戦後70年談話」について、面白い見方をしていました。「謝ることを(子孫まで)宿命にすべきでない」と安倍首相は言ったが、そう簡単には流せないのではないか。日常でも私たちは(良い意味で)すぐに謝る、何かを注文するにも、部屋に入るにも「すみません」から始まる。すみませんと謝る国民性なのだ」と。

「謝罪」することに誇り

北山修の話し方が、謝ることは卑屈でなく、むしろ“謝る国民性”に誇りをもってよいのではないか、むしろ他国が見習うくらいに謝ることは良いことで謝りつづけることが先進性のある謝罪の作法とも解せるようなニュアンスにも聴こえた。また北山は「『お前たちもやっていたではないか』の論理に巻き込まれないようにしましょう」とも。帝国主義国は過去どの国も侵略を行っていた、だからといって開き直りの論理は取らないことだということなのだろう。「アメリカでも原爆投下は悪かったと思う人が出てきた」時間をかければアメリカ側からもきっと反省の声が聞こえるようになると思うと希望的な見方だった。

北山修があっさりと、力まず話すだけに、こういう「謝罪」継続意見もあるのかと新鮮な感じを受けた。

私は、何回も何回もほぼ永久的に「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝り続けるお詫び・謝罪外交は、もうこの辺でいい加減終了しても良いのではないかと感じている。国交正常化した時点で一応の区切り、これを“示談”としなけらば切りがないのではないかと思う。だた北山修の見方には、これはこれで立派な見識と思えた。ここまでの確信をもっての「謝罪の作法」ならば・・。


あえて「選択」をしなかった知恵

戦後70年、「選択」をせずどっちつかずでやってきた国はめずらしい。いま(安保関連法案で)その選択を迫られている状況だが、これまであえて選択せずにダラダラ、ズルズルしてきたとしても(戦争には)手を染めてこなかった。この「70年間」は博物館ものと誇っても良いのではないか、とも。これにはまったく同感できる。

 


【きたやまおさむ(北山修)】おらは死んじまっただ~天国に行っちまっただあ~の歌詞の『帰って来たヨッパライ』 で大ヒットした60年代のフォークグループ「 ザ・フォーク・クルセダーズ」 の中心学生メンバー。 『戦争を知らない子供たち』『悲しくてやりきれない』などの作詞も北山修によるもの。今は精神科医、白鴎大学の副学長。1946年兵庫県淡路島生れ。

帰れないヨッパライたちへ―生きるための深層心理学 (NHK出版新書 384)
きたやまおさむ(北山修)
NHK出版

 

イムジン河 悲しくてやりきれない きたやまおさむ 坂崎幸之助 南こうせつ / 北山修の九州大学退官記念コンサート

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