世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか。関根弘興です。今日もさわやかに一日を過ごしていきたいですね。
まあ私たちは時々こんな疑問を持つことがありませんか。それは、(神様は正しい方なのにどうして悪をそのままにしておくんだろう。また、どうして神様を信頼しているのにこんなに辛いことが起こるんだろう。) そんな疑問ですよね。聖書の詩篇73篇を読むと、この作者はこう訴えているんです。どうして悪者が栄え、神様をないがしろにしている者がやすらかそうに生活しているんだろう。どうして神様を信頼する私たちがこんなにみじめな目に会わなければならないんだろう。おかしいじゃないか。こんな具合です。
私たちは時々、自分に起こること また起こったことの意味を探ろうとするあまり、それこそ、どうしてえ?、どうして?、どうしてだろう?、ということばだけがくるくる回ってしまうということがありますよね。ひとりで思い悩み、ああでもない、こうでもない、そう考えている内に、かってに、神様なんか私のことなんか分かってくれない。 神様なんか、愛? 冗談じゃないよ。 そんなふうに考えてしまうことがあります。どこかで切り替えが必要だと思いませんか?
聖書のことばに耳を傾けてください。こう語っているんです。イザヤ書30章の15節に、「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」実は神様の前に心を静め、自らの姿を顧みること。天地の創造者がいてくださることを信頼し、ゆだね、落ち着くことの中に、前向きな力が湧いてくると聖書は教えます。
さて、あの詩篇の73篇の作者はどうしたでしょう。こう記されています。「私は、神の聖所にはいり、ついに、彼らの最後を悟った。」この神の聖所に入りということは、これは要するに、神様の前に心静め、礼拝を捧げていった時という事ですね。心からの祈りや讃美を捧げていった時に、彼らの最後を悟ったと言うんです。その最後とはいったいどういうことか。それは、一見、安定しているように見え、決して崩れることなどないかのような存在に今は見えるけれど、実はとてももろく、崩れやすい土台の上にいるのだということを彼は知ったというんですよ。
旧約聖書のナホム書1章7節という所には、「主はいつくしみ深く、苦難の日のとりでである。主に身を避ける者たちを主は知っておられる。」 と書いてあります。私たちはまるで、神様が沈黙されているかような辛い現実に直面することがあるかもしれません。でも聖書はなお、主はいつくしみ深く、苦難の日のとりでである、と語り続けているんですねえ。神様の前に心静まるひと時、そのことはあなたの人生にも必要な大切なことではありませんか?
( PBA制作「世の光」2005.5.24放送でのお話しより )
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