中浦和“ふうるふうる”のたらです。
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「とわずがたり」は後深草院に仕えた女房二条の14歳(1271年)から49歳(1306年)ごろまでの日記。境遇、後深草院や恋人たちとの関係、宮中行事、尼になってから出かけた諸国遍歴の記録などが綴られている。
この本は、宮内庁書陵部所蔵の桂宮家蔵書に含まれていた桂宮本(後代―江戸時代前期の写本)5冊のみ現存するそうで、1940年(昭和15年)山岸徳平氏によって紹介されるまでは、その存在を知る者が少なく、天下の孤本といわれる。書陵部(当時は図書寮)で『とはずがたり』を見出した山岸氏は、『蜻蛉日記』にも対等すると直感し、「国語と国文学」9月号で「とはずがたり覚書」として紹介した。一般への全文公開は昭和25(1950)年の桂宮本叢書第15巻が初である。
それを瀬戸内晴美(現・瀬戸内寂聴)さんが昭和45(1970)年にほとんど現代語訳に近い小説にして発表。
瀬戸内さんいわく、「私の50歳の出家への直接の火つけ役は、『とわずがたり』であったかもしれない」。
だそうなのよ。びっくりしたー。
「とわずがたり」なんかは古典中の古典として早くから読まれていたと思いこんでた。
やっぱり後深草院や上級貴族たちの乱脈さがあからさまにかかれていることが“はばかり多し”で一般の目に触れさせないようにしていたのかなあ。瀬戸内寂聴さんの小説が「とわずがたり」が一般に知られるきっかけになったのねえ。
当時は、男女関係のモラルは、いまとは全然ちがっていたとおもうのですが。。。。
源氏物語は男だからよかった?
そんなことはないと思うのですが。
一夫多妻が認められ、色好み(恋愛の情をよく理解した風流人で、特に男性は女性に差をつけずにまんべんなく愛せることがほめられた)が高い評価を得ていた平安時代に書かれ、歌を詠む人は源氏物語を知っていなければいけないとも評価された源氏物語でも、江戸時代には「儒教の観点からするとけしからん」「いや、男女のあはれを説いているから構わない」というように評価が二分されていたそうです。
天皇が権力を持つ立場として返り咲いた明治以降、特に昭和の軍人が幅をきかせていた時代には、源氏物語は皇統を侵し奉る物語(光源氏が父である天皇の后をおかして子供を産ませ、その子を天皇に据えたから=子が父を、臣下が天皇をの二重のタブー)としておおっぴらに学ぶことができないこともあったとか。物語であっても不敬であるそうな。
さて、「とわずがたり」ですが、そんな源氏物語とはまったく違うのです源氏物語はあくまで物語であり、言ってしまえばスリリングだけど平安時代のモラルに沿った、大変おとなしいもの。でも「とわずがたり」は日記であり、事実と認識されるものです。
お読みになるか、もしくは詳細なあらすじをたどっていただければ、“乱脈さ”という表現の意味がおわかりいただけると思うのですが、自分では上手に説明できなくてごめんなさい。
“火山の独り言”さんのブログが参考になりそうです。http://blogs.yahoo.co.jp/kome_1937/25966245.html
それはさておき、後深草院は二条を弟の亀山院にももてあそばせます。この兄弟両院のあさましい「痴話ゲンカ」が後深草院vs亀山院のいがみ合いの原因のひとつになり、そのまま持明院統vs大覚寺統の対立に発展して、はては北朝vs南朝の争いとなるなんて。まったく事実は小説より奇なりだなあと思いました。