ふうるふうる・たらのあんなことこんなこと

いろんなできごとを面白がってしまおうと思っています。
日常のあれやこれや記事です。

「同時代禅僧対談〈問い〉の問答」から 1

2013-05-21 15:33:24 | 昔の話

中浦和“ふうるふうる”のたらです。
(↑これをクリックするとホームページに行きます)


 最高気温が28℃って、もう初夏ですな。
 先ほど今年はじめてベランダの日よけを使ったら、あら快適。
 うーむ、あしたはすだれを設置しよう。

 それはさておき、4月22日にご紹介した、「現代人の祈り 呪いと祝い」(釈徹宗 内田樹 名越康文 サンガ新書)でふれられていた南直哉というお坊さんの発言を知りたいと思ったので、「同時代禅僧対談〈問い〉の問答」(南直哉 玄侑宗久 佼成出版社)を読んでみました。
 いやー、面白い。
 お二人とも禅宗のお坊さん。プロフィールを簡単に述べます。
●南直哉 みなみじきさい 1958年(昭和33年)、長野県生まれ。早稲田大学第一文学部美術史学専攻。大手百貨店勤務を経て、1984年に曹洞宗で出家得度し、大本山永平寺へ入門。19年間の修行生活後、超宗派の若手僧侶の修行道場「獅子吼林サンガ」主幹を経て、福井市霊泉寺住職、青森県むつ市の恐山菩提寺院代(山主代理)をつとめる。
●玄侑宗久 げんゆうそうきゅう 1956年(昭和31年)、福島県生まれ。慶應義塾大学文学部中国文学科卒業後、さまざまな仕事を経験したのち、1983年に京都の天龍寺専門僧堂に入門。福島県福聚寺(臨済宗妙心寺派)住職。2001年に「中陰の花」で芥川賞を受賞。

 何回かに分けて抜粋して紹介します。

★第二章 言語
 われわれは〈わかりたい〉わけです。明確な答えを常に知りたい。しかしそれは、答えを得た瞬間に意味がなくなることなんですよ。
玄侑 居心地のいい答えに安住してしまうと、もう「発生の現場」じゃなくなってしまうということですね。逆に言うと、〈異物〉を抱え込むということが、何かを発生させる「現場」を持続させることだと思うのです。

★第三章 出家
●仏教はヒューマニズムではない
 僕が、自分の脳天気な思い上がりにはたと気づいたのは、必死になって考えて、「これは俺が発見した重大な言葉だ」「すごい考えだな」と思っても、ちょっと振り返れば必ず誰かがかなり前にいっている。決定的に大事だと思うことは、ことごとく大昔の人が言っていることに気づいたときですね。「あ、これは俺がいなくても、もうわかっていることなんだな」と思ったときです。
玄侑 いやあ、まったくそう思いますよね。だいたい独創性なんてのは、ほとんどの場合、無知で怖いもの知らずな思い込みですね。だから本当は、理論的に自分のかけがえのなさを説明することは不可能で、本当に自己を縁起のなかでクリエイトしつづける、〈現成(げんじょう)していく〉ということの価値しかないんです。

 世間の人たちは宗教に、「人間としてそこにあること、あなたがいることに絶対的な価値がある」と言ってほしいのでしょう。しかし、それは宗教が言わないことなのです。宗教は、自己肯定の手段としてあるわけではありません。それは自己存在を見つめるものであって、肯定するものではないんです。ですから、〈かけがえ〉があるかないかなんて、はっきり言えばどうでもいいことです。何がそこで起こったのか、あるいはあなたがそこで何を起こしたのか、それが問題なのであって、〈そこにあなたがいること自体〉なんてどうでもいいことだと思うのです。
玄侑 〈かけがえがない〉と思ってくれるのは嬉しいけれど、そこで本人が喜ぶのは甘いなあと思いますね。
南 その意味で言うと、仏教はヒューマニズムではないのです。

 人間が気持ちよくなるために、仏教があるわけではない。宗教というのは、ときに人間を危機に陥れるものであって、平和にするものではないですよ。まともな宗教は、人間を危機に陥れて、「それでどうする?」という話に持っていくのだと思います。ですから、イエスが「地上に平和をもたらすために、私が来たと思うな。平和ではなく、剣を投げ込むために来たのである」(『新約聖書』「マタイによる福音書」10-34)と言ったのは、まったくもってその通りだと思いますね。ブッダも「最終的には涅槃だ」といい、「涅槃て何ですか?」と聞くと、「存在しなくなることだ」と。これは、ちょっと尋常じゃ考えられないことです。


いやあ、すごくまともなことを言ってることにびっくり。でも、そんなことをあえて言わなきゃいけないめんどくささも感じているんじゃないだろうかとも思ったりして。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿