考察:長田(町田)橋説を書いてまいりましたが、気になる部分に「天保3年(1832)夏8月、幕府の「御馬献上」に随行して東海道を上ってきた広重は、四日市宿に絵の題材を見出すことができず、日永村までやって来た。」とあります。さて、江戸から四日市宿まで40枚以上の絵を描いてきた広重が、絵の題材を見いだせずに日永まで来てしまったのでしょうか?っと思ってしまいました。
さて、岡野先生の推理に戻ります。
四日市宿から 鹿化川の次の橋を超えると西に大宮神明社が今でもある その次が町田(長田)橋である
長田橋は、東海道分間延絵図では土橋ですが、東海道宿村大概帳では石橋となっている。長さ4間、巾2間1尺で、橋の北詰めには柳の木らしきものと小屋があるようだ。構図は広重の絵を持ってこれそうだが、昔から川端に柳があることは多い。帆柱が遠望できて漁師の家らしきものが見えるのは那古の浦の遠望だろうか。
じっとしておれずに 日永へ出かけた。
東海道を南へ望む 左へ入る路地があるところから この辺りに橋が掛かっていたのか?
路地を東へ入る 川の上を歩いていることになる はて?下を流れているのか???東へ進む
川らしきものがあった やはり下を流れていた
逆に西向きに撮る 下校の学童が通っていく その向こうが東海道だ 下水と化した長田川の名残りである