新・ほろ酔い気分

酔っているような気分のまま、
愚にもつかない身辺雑記や俳句で遊んでおります。
お目に留めて下されば嬉しいです。

新春大法螺大会

2009年01月04日 07時46分20秒 | 写真俳句・エッセー

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冬木の芽晩年生くる気組みなり

太宰治の第一創作集の『晩年』は、昭和11年に出版された。27歳であった。

 その創作集には、15篇の創作で構成されているが、いずれにも『晩年』という題名はない。

 ある研究者は、「彼は自殺を前提にして、小説を書き始めたのではないか」と論じていた。

 つまり、遺書のつもりで小説を書いていたというのだ。

 第一創作集の第一編の『葉』は、次のような書き出しとなっている。

 死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。

 27歳の青年とは思えない。確かに太宰治は、はじめから遺書のつもりで創作していたのかもしれない。

 彼の年齢からすれば、70歳代半ばの私は、とうの昔に晩年の域。

 しかも、「死の前提」の元に生きてきた。

「死の前提」とは、体調や病気のことを言っていない。

 人は誰でも死ぬ。生まれてから死ぬまで、死ぬ準備をしているようなものだ。

「死の前提」とは、そのような意味合いだ。

「生きること」は「死ぬ準備」をし続けることであり、反面、「死ぬこと」は「生き抜くこと」でなければならない。

「生き抜くこと」とは、「生きる意味」を絶えず問い続けること。

 少なくとも、その「気概」を持ち続けたいと願っている。

 とは言いながら、この私、単に未練がましく狼狽えるかもしれない。

 ひょっとしたら、意外にも、泰然自若として「気概」を持ち続けるかもしれない。

 ひよどり氏のお手並みを拝見したいところだ。

    冬木の芽晩年生くる気組みなり  鵯 一平

 枯れ果てた姿を見せていても、この季節の木々は、着々と春への準備を進めている。

 枯れた姿の内側に、新しい息吹を秘めていて頼もしい。

 新年早々、大口を叩いてしまいました。

「新春大法螺大会」と思し召して、呵々大笑のほどを!

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コメント (18)
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