シアヌーク前国王死去 カンボジア国民統合の象徴(共同)
シアヌーク・カンボジア元国王が死去した。その89年間は、まさに大国に翻弄され続けたカンボジアの歴史そのままの波乱の人生だった。
1949年にフランスから独立後国王に即位。平和で穏やかな国だったカンボジアが一変するのは1970年、米国の支援を受けた親米派ロン・ノル将軍によるクーデターからだった。シアヌーク国王はこのとき追放、カンボジアはロン・ノル将軍の下でクメール共和国となった。
やがて、隣国ベトナムでの戦争がカンボジアにも波及。ベトナム戦争が終結した1975年、米国の敗退に合わせるようにカンボジア共産党(クメール・ルージュ)政権が成立。急激な農業集団化や貨幣経済廃止など極端な共産主義政策がとられた結果、多くの国民が餓死した。逮捕や処刑も相次ぎ、クメール・ルージュ政権下で死亡したカンボジア国民は200万人ともいわれる(クメール・ルージュ政権下での虐殺は、ハリウッド映画「キリングフィールド」にも描かれた)。
1979年、ベトナムの軍事介入によりクメール・ルージュ政権は崩壊。ベトナムの傀儡であるヘン・サムリン政権が誕生した。クメール・ルージュ時代の極端な政策は廃止されたが、引き続きベトナムの指導の下で社会主義政策がとられた。
ベトナムの支配に反対する旧勢力、シアヌーク派、ソン・サン派(旧ロン・ノル派)、クメール・ルージュによる「反ベトナム三派連合」が形成され、ベトナム軍と「三派連合」との間で内戦が続いた。倒し、倒される関係にあった国王派、親米派から共産主義勢力までが反ベトナムの1点だけで共闘した三派連合は、文字通り「呉越同舟」状態だった。
ベトナムと三派連合との内戦は、1989年、ベトナム軍撤退でようやく終結。国連による暫定統治の後、1993年、初めて民主的な選挙が行われ新政権が発足した。王政に戻ったカンボジアで、シアヌーク氏は「内戦に明け暮れ、疲弊した国民を再統合するための象徴」として再び国王に即位する(2004年に退位)。クメール・ルージュの残党が埋設した地雷の処理に自衛隊が派遣され、クメール・ルージュ関係者らの裁判が行われたことは記憶に新しい。
戦乱に明け暮れたカンボジアで時代に翻弄されたひとりの国王の波乱に満ちた人生から、21世紀の私たちがくみ取るべき教訓は、実はそれほど難しいことではない。民族自決権(各民族が自分たちの政治・社会体制を自ら選び取る自由)や民主主義の尊重、いかなる理由によっても武力による紛争解決をしてはならない(武力によって物事が解決することはない)ということである。
カンボジアは、長かった戦乱の時代が終わり、あまりにも大きな犠牲の上に平和がようやく訪れた。しかし、アフガニスタンのように今なお戦乱の中で社会的弱者が苦しみ続ける国もある。武力でなく平和的アプローチによって私たちに何ができるのか。世界、そして人類に突きつけられている課題は依然として大きい。
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(注)クメール・ルージュについて
カンボジアはクメール民族の国である。クメール・ルージュとはカンボジアの公用語、クメール語で「赤いクメール人」を意味する。もともとは、シアヌーク国王(ベトナム戦争以前)時代に国費留学した学生たちが、留学先のフランスで共産主義にかぶれて帰ってくるのを見て激怒したシアヌーク国王が彼らをこう呼んだのが始まりである。このときの「赤いクメール人」たちが、後にカンボジア共産党の主力メンバーとなったことから、クメール・ルージュはカンボジア共産党の別名として国際的に広く使われるようになった。名付け親のシアヌーク国王にしてみれば、自分が「赤いクメール人」と罵った相手と、後に三派連合として組むことになるとは夢にも思わなかったに違いない。
日本のメディアは彼らを「ポル・ポト派」と呼んでいたが、厳密に言うとこれはあまり適切な呼称とはいえない。なぜならポル・ポト派はクメール・ルージュの中のひとつの派閥であって、他にもポル・ポトに次ぐ実力者といわれたキュー・サムファン議長を中心とする派閥なども存在していたからである。ポル・ポト派をクメール・ルージュ全体の呼称として使うのは、日本でいえば「森派」とか「古賀派」を自民党全体を表す別名として使うようなものである。
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カンボジアの歴史については、古い資料だが、岩波ブックレットNo.284「ポル・ポト派とは?」(小倉貞男・著、1993年)が詳しい。当エントリもかなりの部分をこのブックレットに基づいて記述している。
シアヌーク・カンボジア元国王が死去した。その89年間は、まさに大国に翻弄され続けたカンボジアの歴史そのままの波乱の人生だった。
1949年にフランスから独立後国王に即位。平和で穏やかな国だったカンボジアが一変するのは1970年、米国の支援を受けた親米派ロン・ノル将軍によるクーデターからだった。シアヌーク国王はこのとき追放、カンボジアはロン・ノル将軍の下でクメール共和国となった。
やがて、隣国ベトナムでの戦争がカンボジアにも波及。ベトナム戦争が終結した1975年、米国の敗退に合わせるようにカンボジア共産党(クメール・ルージュ)政権が成立。急激な農業集団化や貨幣経済廃止など極端な共産主義政策がとられた結果、多くの国民が餓死した。逮捕や処刑も相次ぎ、クメール・ルージュ政権下で死亡したカンボジア国民は200万人ともいわれる(クメール・ルージュ政権下での虐殺は、ハリウッド映画「キリングフィールド」にも描かれた)。
1979年、ベトナムの軍事介入によりクメール・ルージュ政権は崩壊。ベトナムの傀儡であるヘン・サムリン政権が誕生した。クメール・ルージュ時代の極端な政策は廃止されたが、引き続きベトナムの指導の下で社会主義政策がとられた。
ベトナムの支配に反対する旧勢力、シアヌーク派、ソン・サン派(旧ロン・ノル派)、クメール・ルージュによる「反ベトナム三派連合」が形成され、ベトナム軍と「三派連合」との間で内戦が続いた。倒し、倒される関係にあった国王派、親米派から共産主義勢力までが反ベトナムの1点だけで共闘した三派連合は、文字通り「呉越同舟」状態だった。
ベトナムと三派連合との内戦は、1989年、ベトナム軍撤退でようやく終結。国連による暫定統治の後、1993年、初めて民主的な選挙が行われ新政権が発足した。王政に戻ったカンボジアで、シアヌーク氏は「内戦に明け暮れ、疲弊した国民を再統合するための象徴」として再び国王に即位する(2004年に退位)。クメール・ルージュの残党が埋設した地雷の処理に自衛隊が派遣され、クメール・ルージュ関係者らの裁判が行われたことは記憶に新しい。
戦乱に明け暮れたカンボジアで時代に翻弄されたひとりの国王の波乱に満ちた人生から、21世紀の私たちがくみ取るべき教訓は、実はそれほど難しいことではない。民族自決権(各民族が自分たちの政治・社会体制を自ら選び取る自由)や民主主義の尊重、いかなる理由によっても武力による紛争解決をしてはならない(武力によって物事が解決することはない)ということである。
カンボジアは、長かった戦乱の時代が終わり、あまりにも大きな犠牲の上に平和がようやく訪れた。しかし、アフガニスタンのように今なお戦乱の中で社会的弱者が苦しみ続ける国もある。武力でなく平和的アプローチによって私たちに何ができるのか。世界、そして人類に突きつけられている課題は依然として大きい。
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(注)クメール・ルージュについて
カンボジアはクメール民族の国である。クメール・ルージュとはカンボジアの公用語、クメール語で「赤いクメール人」を意味する。もともとは、シアヌーク国王(ベトナム戦争以前)時代に国費留学した学生たちが、留学先のフランスで共産主義にかぶれて帰ってくるのを見て激怒したシアヌーク国王が彼らをこう呼んだのが始まりである。このときの「赤いクメール人」たちが、後にカンボジア共産党の主力メンバーとなったことから、クメール・ルージュはカンボジア共産党の別名として国際的に広く使われるようになった。名付け親のシアヌーク国王にしてみれば、自分が「赤いクメール人」と罵った相手と、後に三派連合として組むことになるとは夢にも思わなかったに違いない。
日本のメディアは彼らを「ポル・ポト派」と呼んでいたが、厳密に言うとこれはあまり適切な呼称とはいえない。なぜならポル・ポト派はクメール・ルージュの中のひとつの派閥であって、他にもポル・ポトに次ぐ実力者といわれたキュー・サムファン議長を中心とする派閥なども存在していたからである。ポル・ポト派をクメール・ルージュ全体の呼称として使うのは、日本でいえば「森派」とか「古賀派」を自民党全体を表す別名として使うようなものである。
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カンボジアの歴史については、古い資料だが、岩波ブックレットNo.284「ポル・ポト派とは?」(小倉貞男・著、1993年)が詳しい。当エントリもかなりの部分をこのブックレットに基づいて記述している。