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【訃報】信楽高原鉄道事故遺族会代表世話人、吉崎俊三さん死去

2018-05-05 13:00:41 | 鉄道・公共交通/安全問題
信楽高原鉄道事故遺族の吉崎俊三さんが死去(神戸)

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 信楽高原鉄道事故の遺族で、民間機関「鉄道安全推進会議(TASK)」の会長を長年担った吉崎俊三(よしざき・しゅんぞう)さんが2日午後11時23分、肺炎のため兵庫県猪名川町の病院で死去した。84歳。滋賀県浅井町(現長浜市)出身。自宅は宝塚市中山桜台1の4の8。通夜は3日午後7時から、葬儀・告別式は4日午後1時半から、いずれも宝塚市売布東の町15の14、宝塚平安祭典会館で。喪主は長女の溝口恵美子(みぞぐち・えみこ)さん。

 1991年5月、滋賀県信楽町(現甲賀市)で信楽高原鉄道とJR西日本の列車が正面衝突する事故が発生。吉崎さんの妻佐代子さん=当時(53)=ら42人が犠牲になった。

 事故2カ月後に遺族会を立ち上げ、代表世話人として対応に尽力。93年8月には、ほかの遺族らとTASKを結成し、2005年から9年間にわたって代表を務めた。

 鉄道事故を対象にした調査機関の必要性を国に訴え、01年、国土交通省の航空・鉄道事故調査委員会(現運輸安全委)設置が実現。日航ジャンボ機墜落事故(1985年)や明石歩道橋事故(01年)、尼崎JR脱線事故(05年)の遺族らと連携して、被害者支援の充実を求め、国の体制強化にも尽くした。
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1991年5月に起きた信楽高原鉄道事故(死者42人)で、遺族会の代表世話人として遺族を取りまとめ、その後もTASK(鉄道安全推進会議)を立ち上げるなど、公共交通事故の被害者救済と事故原因究明の両面から意欲的、献身的に活動してきた吉崎俊三さんが亡くなった。80歳を過ぎる頃から、高齢のため体調がすぐれず、ここ数年はJR福知山線脱線事故など他の事故関係で開かれる集会などにもほとんど出席できない状況だということは、福知山線事故遺族の藤崎光子さんを通じて、何度か耳にしていた。

吉崎さんの功績は、上の神戸新聞の記事にある通りであり、改めて繰り返さないが、神戸新聞が触れていない点をいくつか補足しておくと、旧運輸省にはそれまで、船舶の事故を調査する海難審判庁と航空機事故を調査する航空機事故調査委員会があるだけだった。公共交通機関の事故調査や原因究明には専門的な知識と大規模な調査体制が必要であるにもかかわらず、陸上交通機関の事故を調査する常設の機関はなかったのである。

航空機事故調査委員会を航空・鉄道事故調査委員会に改める法改正が、ようやく国会で実現したのは2001年10月のこと。吉崎さんが、最愛の妻を失ってから10年が経過していた。その後、海難審判庁を統合して、航空・鉄道事故調査委員会が運輸安全委員会に改組されたのは2008年10月。国家行政組織法第3条に基づき、より独立性の高いとされる「3条委員会」となった(3条委員会には、他に公正取引委員会(内閣府に設置)や原子力規制委員会(環境省に設置)などがあるが、特に原子力規制委員会が独立性を維持できているかどうかについては、別の機会に改めて触れたい)。

3条委員会の組織形態になっても、運輸安全委員会は国土交通省の外局に位置づけられている。独立性が高いとはいえ、国土交通省と運輸安全委員会事務局との間で人事異動による官僚の行き来が繰り返され、その影響もあって鉄道会社への勧告はしても国の鉄道安全対策への勧告や提言は行えないなど、完全独立機関でないことの弊害は大きく、その是正は今後の課題だ。

しかし、航空・鉄道事故調査委員会への改編によって、鉄道事故や重大インシデントが発生した際、直ちに調査官を現地に派遣することができるようになったのも、吉崎さんたちの活動が実ったからである。事故や重大インシデント発生の都度、調査委員会を立ち上げて調査官を任命・派遣し、調査が終わったら解散するという体制に比べ、より機動的に調査ができるようになったことはもちろんである。吉崎さんのこの功績は、いくら強調してもしすぎることはない。

信楽高原鉄道事故は、JR発足後、2桁の死者を出す初めての大事故であり、安全問題研究会にとっても活動の原点となった事故のひとつである。安全問題研究会は、吉崎さん死去にあたり、謹んで哀悼の意を表する。


<関連写真>(撮影はいずれも2008年11月2日、安全問題研究会)

写真1 TASKの活動を伝えるパネル(信楽駅)


写真2 TASKの要望を受けて製造された信楽高原鉄道車両の紹介パネル(信楽駅)


写真3 小野谷信号場跡(事故後廃止)ここの信号設計ミスが事故原因とされる


写真4 信楽高原鉄道の始発(終着)駅、貴生川駅構内に国鉄マンが建てた安全の碑 JR西日本はこの鉄道マンの誓いも裏切った


写真5 事故後、信楽町は「鉄道安全の町」を宣言した

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