県の「沖縄から伝えたい。米軍基地の話Q&A BOOK」は嘘だらけである。徹底して反論する



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chihosho@mxj.mesh.ne.jp
県内取次店 株式会社 沖縄教販
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県の「沖縄から伝えたい。米軍基地の話Q&A BOOK」は嘘だらけである。徹底して反論する。
沖縄県知事公室基地対策課から沖縄の米軍基地の疑問を分かりやすく解説するという「沖縄から伝えたい。米軍基地の話Q&A BOOK」が発表された。

 最初に普天間飛行場の上空写真があり、
「米軍基地のホント?うそ!?」
「何も無かったところに米軍基地ができたの?」
の文言を並べてある。
第1章:沖縄と米軍基地の歴史的側面
Q1沖縄の米軍基地ができた歴史的背景を教えてください。
Q2何もなかったところに米軍基地ができて、その周りに人が住んだのではないですか。
Q3米軍統治下における沖縄の状況について教えてください。
第2章:米軍基地の現状と日米地位協定
Q4沖縄にはどれだけの米軍基地があるのですか。
Q5沖縄本島中南部にある米軍基地の状況を教えてください。
Q6沖縄の軍用地の特徴を教えてください。
Q7米軍基地に起因する事件や事故について教えてくだ
Q8米軍に起因する騒音問題や環境問題につ
いて教えてください。
Q9日米地位協定とは何ですか。また課題を
教えてください。
Q10日米地位協定の改定は難しいのではないですか。

第3章:米軍基地と沖縄県の経済、財政
Q11沖縄県の経済は米軍基地経済に大きく依存しているのではないですか。
Q12米軍基地がなくなったら沖縄の経済に悪影響があるのではないですか。
Q13軍用地主は大金持ちと聞きましたが本当で
すか。
Q14米軍基地と引き替えに沖縄振興が図られて
いるのではないですか。
Q15内閣府沖縄担当部局予算(沖縄振興予算)は沖縄県にだけ3,000億円上乗せされているので、米軍基地を負担するのは当然ではないですか。
第4章:辺野古新基地建設問題
  ( 普天間飛行場移設問題)
Q16なぜ普天間飛行場を辺野古へ移設することに反対なのですか。
Q17沖縄県は辺野古新基地建設に反対していますが、日米安全保障体制に反対なのですか。
Q18沖縄県が、辺野古への移設を反対すると、普天間飛行場の危険が放置されるのではないですか。
Q19辺野古・大浦湾の自然環境について教えて下さい。
Q20辺野古・大浦湾の5,800種以上の生物のうち、 約1,300種は分類されていない生物であり、その多くは新種の可能性があるというのは本当ですか。
Q21沖縄県は最高裁判所で敗訴したのだから、辺野古移設を認めるべきではないのですか。

Q21までの県の回答はひどい。県の回答にできるだけ詳しく反論していこうと思っている。
Q1沖縄の米軍基地ができた歴史的背景を教えてください。
豊かな自然と独特な文化を有する沖縄は、太平洋戦争において、史上まれにみる熾烈な地上戦が行われ、「鉄の暴風」と呼ばれたほどのすさまじい爆弾投下と砲撃により、緑豊かな島々は焦土と化しました。 沖縄に上陸した米軍は、住民を収容所に強制隔離し、土地の強制接収を行い、次々と新しい基地を建設していきました。住民は土地を有無を言わさず奪われました。


県は戦前の沖縄を「豊かな自然と独特な文化を有する」と述べて、沖縄の生活は豊かであったようなイメージを与えている。自然は豊かであったかも知れないが沖縄県民の生活は非常に貧しかった。沖縄の土地は養分の少ない赤土である。小さい島なので大きい川がなく、水資源も乏しく米作に向いていなかった。それに夏には暴風がやってくるから農作物の被害は大きかった。
戦前の沖縄の人口は60万人以上になったことはない。なれなかった現実があった。

沖縄の主食は米ではなかった。さつま芋だった。さつま芋は赤土に育ち暴風の被害も少なかったからだ。
戦前の沖縄の産業は農業であった。政府の方針で換金作物であるさとうきびを主につくっていた。さとうきび栽培で成金になる農家もあった。しかし、それが一転して沖縄を貧困に追い込むことになる。原因は世界恐慌である。

世界恐慌とソテツ地獄
日露戦争後の不況にあえいでいた日本は、1914(大正3)年に勃発した第一次世界大戦によって一時撤退したヨーロッパ列強にかわって、アジア市場を独占するようになった。軍需品や鉱産物、薬品関係などの大量輸出によって景気は回復し、日本の工業も発達した。沖縄もこの大戦景気の恩恵を受け、特産物の砂糖で利益をあげる「砂糖成金」が生まれるほどであった。
第一次大戦が終わって西欧勢力が再びアジア市場に進出してくると、日本の輸出は急速に減少し、国内では過剰生産によるいわゆる戦後恐慌におちいった。砂糖の価格は下落し、深刻な不況の波が押し寄せてきました。
さらに、1923(大正12)年におこった関東大震災や、1929(昭和4)年におこった世界恐慌により、「昭和恐慌」とよばれる慢性的な不況が日本をはじめ沖縄の人々の生活を襲った。
大正末期から昭和初期にかけておこった恐慌は、沖縄では「ソテツ地獄」とよんいる。当時の沖縄の人口の7割が暮していた農村部では、極度の不況のため米はおろか芋さえも口にできず、多くの農民が野生の蘇鉄を食糧にした。毒性を持つ蘇鉄は、調理法をあやまると死の危険性があるにもかかわらず、その実や幹で飢えをしのぐほかないほど、農村は疲弊しきっていた。
しかし、このような県民の貧窮にもかかわらず国税は徴収され、さらに台風や干ばつなどが追い打ちをかけたため、県民の暮らしは文字通り地獄の様相を呈していった。農家では身売りが公然とおこなわれ、さらには海外への移民や本土への出稼ぎが増えていった。
このように戦前の沖縄は極貧であった。人口が60万人以上になることはなかったことが理解できると思う。戦前は極貧であり60万人の人口にならなかったことを明らかにすれば、戦後の沖縄の人口が60万人をはるかに超え、祖国復帰前には94万人になった原因が米軍基地経済のお蔭であることを認めなければならない。しかし、県が沖縄から伝えたい。米軍基地の話Q&A BOOK」を発表した目的は沖縄に米軍基地は必要ないことを主張するのが目的である。戦前の極貧を明らかにすれば県が主張ができなくなる。そうならないために県は戦前の沖縄の極貧を隠したのである。そして、戦前は「豊かな自然」という表現を使ってあたかも戦前の沖縄は豊かな生活を送っていたように見せかけて深刻な沖縄の極貧を隠したのである。

県は戦時中について「沖縄に上陸した米軍は、住民を収容所に強制隔離し、土地の強制接収を行い、次々と新しい基地を建設していきました。住民は土地を有無を言わさず奪われました」と述べている。「強制隔離」の表現では住民は隔離されなくてもいいのに米軍は強制的に隔離したとイメージになり、捕虜収容所での住民は不自由で満足な食事も与えられなかったと思ってしまう。
しかし、事実は違っていた。沖縄は全域が戦場であった。日本兵は山間や住宅地など至る所に潜んで米軍を急襲した。また、住民の服装をして米軍を襲ったこともあった。米軍にとって日本兵と住民の区別ができなかったので手を上げて降伏をしない住民を銃撃するケースも多かった。
墓に隠れて犠牲になった住民である。



上の写真は医療班員にとともに国吉大地方面を駆け抜けている時に射殺された女性である。彼女は野戦病院に動員された女学生の従軍看護婦か、女子義勇隊とよばれ防衛召集された女子青年団であるだろう。カバンには自殺用の手投げ弾、小銃弾、包帯などの衛生材料が入っていた。(6月12日)
下の写真は海兵師団の拙攻に射殺された女子狙撃兵である。
日本軍は住民に手りゅう弾を2個渡し、米兵にあったら一個は米兵に投げ、残りの一個で自殺するように指導していた。住民も兵士にしたのが沖縄戦であった。



足腰不自由で逃げ遅れた老女であるが、老女でも逃げようとすれば米兵は射殺した。那覇市(5月)



住宅地でも野山でも戦場であった沖縄には住民にとって安全な場所はなかった。唯一安全であったのが捕虜収容所である。
沖縄民謡に「PW無常」という歌がある。PWというのは Prisoner of War の略で戦争捕虜のことである。戦争に負けて捕虜になってしまった惨めな気持ちを歌った民謡である。子供の頃に何度も聞いて捕虜生活は惨めだっただろうと思っていたが、この歌は戦争に勝つつもりでいたのに負けてしまったことへの気持ちを歌ったものであり、捕虜収容所の生活について歌ったものではなかった。

米国は民主主義国家である。軍国主義国家ではない。県は米軍は「住民を収容所に強制隔離し、土地の強制接収を行い」と述べて米軍が県民を弾圧したように述べているが事実は違う。沖縄戦で民間人が10万人も殺されたのは無差別の艦砲射撃や爆撃もあったが、地上戦は激戦であり、日本兵と民間人の区別ができないために多くの民間人が犠牲になった。米軍にとって住民の犠牲者を出さないためには収容所に入れる必要があったのである。

戦時中の捕虜収容所

米軍軍政府は上陸早々、各収容所内の教育者をピックアップして、各地区に学校を建てさせた。開校式には地区隊長が出席し、祝辞を読んだ。
写真はコザ第二小学校の写真である。上は「シッカリベンキョウシマショウ」と訓示するケラー少佐。中はコザの教育長兼米軍政府教育顧問の兼島ヨウシキ氏と真玉橋キョウセイ先生。下は開校祝賀運動会。



髙江洲小学校の様子。同行の設立は4月5日である。米軍が嘉手納、読谷に上陸したのが4月1日であるから上陸から6日目の設立である。米軍が泡瀬方面に進攻したのは4月3日であったから、捕虜にすると同時に米軍は学校をつくったことになる。
校舎は仲喜州国民学校の木造校舎を利用した。教員64名、児童生徒は2.414名だった。


米軍は戦争孤児収容施設もつくった。今の沖縄市室川に200人前後の孤児が収容されていた。戦前女子師範だった大山盛康氏が校長。姫ゆり部隊生き残り5人と當山菊さんの6人が先生であった。


米軍は戦争中に安全な場所である捕虜収容所に学校をつくったのである。この写真は戦争後の写真ではない。激しい戦争が行われている最中の捕虜収容所の写真である。

米軍は学校をつくっただけではない。各収容所には必ず食糧配達所と病院を設置した。
6月29日に撮った写真である。マリー・ティーラーはサンフランシスコ生まれで、11歳の時に沖縄に帰ってきたため英語がペラペラであった。軍医は大助かりだった。


上・ハブに咬まれた少年を治療している。中・収容所の前で明るい笑顔を見せる看護婦たち(6月22日)。下・人手の足りない診療所では彼女たちの存在は貴重だった。


彼ら医療関係者ほど住民に感謝されたアメリカーは居ない。彼らは人類愛を遺憾なく発揮した。北部の田井等で骨折の治療。

 米軍は各地のキャンプ近くには必ず糧秣倉庫をつくり、食糧を集積した。これら野戦用の食料は1946年の5月
までは、全部住民に配給した。各収容所では主食の足しに芋が増産された。
配給を適切に行うためにカードを支給した。上はカードを支給している写真である。下は戦火をまぬかれた誰かのタル詰めの黒糖も配給の対象になった。



南部から移動してきた人々の村。芋の配給。


5万人に増えた田井等
 米軍が名護、羽地方面を占領したのが4月7日であった。羽地の真喜屋と今帰仁に疎開していたのが首里市民であったが、元気な者は民とともに逃げ込んだ。しかし、足の弱い老人5名が真喜屋の分校に残った。日本軍が襲撃するということでこの老人たちを田井等の空き家に移したのが収容所の初めであった。4月の12、3日頃のことである。
 やがて、毎日山から下りてくる人々でふくれあがり、9月25日には55、266人になった。捕虜収容所は自由であり食糧もあり、看護も充実していたので収容所に入る住民は増えていった。

 戦争中は軍事優先であり、基地をつくるために土地を接収するのは当然である。県は「土地の強制接収を行い」と述べているが、住民は避難していて住民が住んでいない場所に基地をつくった。そして、住民が安心して生活できる場所を米軍は確保した。「住民は土地を有無を言わさず奪われました」というのは間違っている。
 県は戦時中の事実を正確には述べていない。
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