銃剣とブルドーザー」は非合法沖縄共産党の暗躍があったからである。その証拠の文章が見つかった



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「銃剣とブルドーザー」は非合法沖縄共産党の暗躍があったからである。その証拠の文章が見つかった。


太平洋戦争終結後も、朝鮮戦争の勃発など国際情勢の変化に伴い新しい基地が必要になると、武装兵らによる「銃剣とブルドーザー」で住民を追い出し、家を壊し、田畑をつぶして、新たな基地を造っていきました。
 
 この文章は「沖縄から伝えたい。米軍基地の話Q&A BOOK」の第1章:沖縄と米軍基地の歴史的側面の一部である。この文章が嘘であることを説明する。「銃剣とブルドーザー」を根拠にしているのが伊佐浜と伊江島の土地接収であるが、土地接収したのは他にももっとあった。他の土地では「銃剣とブルドーザー」を使わなかった。そのことを読谷村の渡具知と名護市の辺野古の土地接収で説明する。
伊佐浜で「銃剣とブルドーザー」による土地接収が行われたというのが常識になっているが、その原因をつくったのが沖縄の非合法共産党である。非合法共産党が深く関わったから「銃剣とブルドーザー」の場面ができたのである。そのことを説明する。伊佐浜の土地接収反対運動の中心人物が国場幸太郎という非合法共産党員であった。皮肉なことに彼が書いた伊佐浜土地接収のドキュメントが「銃剣とブルドーザー」は非合法共産党が深く関わっていたことを証明している。、彼が書いた伊佐浜土地接収のドキュメントを最後に紹介する。

米国は議会制民主主義国家である。米軍はジビリアンコントロールされていて、米軍が政治をすることは許されていない。終戦から5年間は米軍政府がインフラ整備のために沖縄を統治していたが、1960年からは米民政府が統治した。
県は米軍が「銃剣とブルドーザー」で住民を追い出し、家を壊し、田畑をつぶして、新たな基地を造っていったと述べているが民主主義国家である米国がそんなことをするはずがない。
新しい土地が必要であるかどうかを最終的に判断し土地接収を決めるのは米軍ではなく米民政府であった。米民政府は必要な土地に住民が住んでいると退去するように通告し、強制立ち退きを迫ったが、その前に住民との交渉を行った。一番の問題は立ち退きをしなければならない住民の住む場所である。それと建設費用や移転補償である。米民政府はそのことについて住民と交渉して移設先を決めた。それが事実である

県は「銃剣とブルドーザー」で住民を追い出し、家を壊し、田畑をつぶして、新たな基地を造っていったと述べていてそれを伊佐浜と伊江島土地接収を例に出して、沖縄の土地接収は「銃剣とブルドーザー」でやったと思わせているが、事実はそうではなかった。そのことについて説明する前に県公文書にかいてある伊佐浜の土地接収を紹介する。

米軍は1954(昭和29)年12月に住民へ立ち退きを勧告しましたが、翌年1955年3月11日、武装兵とブルドーザーを出動させ、約3万坪の土地を接収しました。また3月14日には、伊江島の真謝でも約300人の武装兵が島に上陸し、家から住民を追い出した後、13戸の家屋をブルドーザーで破壊して焼き払い、10万8千坪の土地が米軍に接収されました。
その状況に対し、琉球政府立法院でも住民の生命と財産を守る基本的な立場から米側に対して軍用地収容取り止めの請願を再三行いました。
「土地収用家屋立退き指令撤回要求決議案」第5回臨時第5号 1955年3月4日 
同年7月11日、米軍はさらに伊佐浜の土地を10万坪(立ち退き家屋32戸)接収すると通告し、住民は「土地取上げは 死刑の宣告」などのノボリを立てて反対しました。しかし、7月19日の夜明け前、武装兵に守られたブルドーザーやクレーンにより家屋が取り壊され、32戸136名の住民が住む家を失いました。
この土地の強制収容は県民に大きな衝撃を与え、米軍の占領支配への抵抗運動として「島ぐるみ闘争」へと発展していきました。
               「沖縄県公文書」
県公文書では1954(昭和29)年12月に住民へ立ち退きを勧告し、3カ月も経たない翌年の3月11日、武装兵とブルドーザーを出動させたと書いてある。もしそうであればひどい。たった3カ月では移転先さえ見つけるのは難しい。本当に米民政府はこんなひどいことをやったのだろうか。そうではなかったはずである。
そのことが予想できる県公文書がある。

この日から遡ること2年前、米軍は1953(昭和28)年4月3日に琉球列島米国民政府布令第109号『土地収用令』を公布し、同年4月11日に真和志村(現那覇市)の銘苅と安謝の一部、ついで天久と読谷村渡具知、同年12月には小禄村具志で土地接収を強行しました」
「県公文書」
県公文書に民政府は2年前に土地接収の交付をしたと書いてある。米民政府は交付をしてから住民と交渉をしたが住民は反対したので1954年12月に3月11日に強制接収することを最後通告したと考えられる。この最後通告を県公文書はあたかも最初の通知のように見せている。それに反対したのは住民全員ではない。民政府の布令に応じた住民もいた。だから土地接収を宣告してわずか3カ月足らずで強制接収をしたということではない。
「沖縄県公文書」に土地接収された住民がその後どうなったかを書いていない。彼らは住むところがなくて路頭に迷ったのだろうか。いや、そうではなかっただろう。住む家は米民政府が準備していたはずである。私はそのことを子どもの頃に知っている。私は県公文書にある渡具知についての顛末について知っているからだ。というのも、海の近くにあった渡具知が私が住んでいた比謝の隣に移転したからだ。そのことについて説明する。
私が幼稚園生の頃だった。私は読谷村の比謝に住んでいたが、ある日、ブルドーザーが比謝の近くの原野のすすきや木々をなぎ倒して整地していった。整地した土地には家が建てられていった。それが海の近くにあった渡具知の移転先であった。
写真はトリイステイションである。トリイステイションは渡具知、楚辺のを移転させ、大木、古堅のの一部も移転させた広大な通信基地であった。


 写真に写っている畑すべてがトリイステーションである。宇宙衛星時代になる前は畑にはおよそ100基を超す電波塔が立っていた。
古堅小学校の西と南はトリイステーションの金網に囲まれている。私の頃は古堅小中学校であり、9年間今の古堅小学校に通った。小学校の南側には金網の向こうに窓のない巨大なコンクリートの建物があった。その建物が通信基地であり、アジアのすべての情報が集まる場所と聞いた。トリイステーションがアジア一の通信基地であると聞いて目の前にアジア一の通信基地があることを私は内心誇りに思った。

渡具知は左下にあったで、楚辺はトリイビーチあたりにあったと思う。楚辺のは全部写真の左上のほうに移った。渡具知も楚辺も原野を整地して、家を建てたのである。整地する費用や建築の費用を出したのは米民政府であっただろう。その頃の住民は貧しかったから整地して家を建てる費用はなかったはずである。
比謝は渡具知からかなり離れた場所にある。畑に通うには距離が遠くて不便であった。それに渡具知は漁業のであったから比謝の隣にうつったのでは漁業ができない。だから反対する住民も多かったのではないだろうか。近くの古堅に移転する方法もあったが、そうすると広い空地がないので渡具知の住民は分散しなくてはならなかった。全体が移転できるのは比謝の隣の原野しかなかったのである。沖縄はの共同体意識がとても強い。分散するよりはまとまることを選択して比謝の隣に移転することにしたと思う。原野を整地して家をつくった後に移転するまでは一年以上はかかった。「県公文書」では渡具知の土地接収を強引にやったように書いてあるが、事実はそうではなかった。私は確信を持って言える。

米民政府は土地接収の時に強制立ち退きをさせたが、移転先の確保や家をつくる費用は保障したはずである。それに写真で分かるようにトリイステイション内に畑がある。その畑一帯には多くの電波塔が立っていた。米民政府は米軍基地内であっても設備として使っていない土地を畑にすることを許可した。だから電波塔の周囲で畑をつくるのは黙認していた。そのような畑を黙認耕作地という。
嘉手納飛行場内に畑はないが、嘉手納飛行場の北側にある嘉手納弾薬庫は広大な畑地帯がある。
58号線を北に向かって走ると、嘉手納町を過ぎると読谷村であるが、読谷村の58号線の右側は広大な畑地帯である。返還された場所にはファミリーマートやサンエーなどの新しい店舗が並んでいるが、そこを過ぎると延々と畑と緑地帯が続き、家は一軒もない。そこは軍用地の黙認耕作地だからである。軍用地料をもらいながらも畑もできる場所である。ただ、ビニールハウスなどの設備を設置するのは禁じられている。
県は、「田畑をつぶして」と述べているが写真で分かるように黙認耕作地があるように基地建設に必要な場所は田畑を潰しただろうが、米民政府はできるだけ田畑を残すようにした。それが黙認耕作地である。黙認耕作地帯は子どもの頃よく遊んだ場所であり、あの頃の風景が今も残っている場所である。

読谷村では県が述べているような「銃剣とブルドーザー」で住民を追い出し、家を壊し、田畑をつぶして、新たな基地を造っていきました」ということはなかった。土地接収は強制であったがの移転先を確保し家もつくった。それは読谷村だけでなくすべての地域で行ったはずである。県が述べているようなことは本当はなかったはずである。
伊佐浜でも楚辺や渡具知のように移転先を米民政府は確保し、新しい家を提供する約束をしたはずである。
米民政府は一方的に強制土地接収をしたのではなく、住民との交渉に応じていたことが史実として残っているのが辺野古がある。

辺野古はどんなに反対しても強制接収されるのなら、条件をつけて受け入れをするということにした。
辺野古民の出した条件は、
Ⅰ 農耕地はできるだけ使用しない。
2 演習による山林利用の制限。
3 基地建設の際は労務者を優先雇用する。
4 米軍の余剰電力および水道の利用
5 損害の適正保障
6 扶養地の黙認耕作を許可する。
の6項目であった。要求がすべて受け入れらたのではないが、米軍と辺野古区は友好関係になり、キャンプシュワブが建設された。
水道の整備は米民政府の援助で行われた。辺野古の土地造成工事も米民政府が陣頭指揮をとって協力した。米民政府は基地建設のために強制接収をしたが、土地接収通告を出した後に時間をかけて住民側と話し合い住民側の要求を聞きいれていたことが分かる。
米民政府は伊佐浜でも辺野古のように交渉をやり渡具知のように移転先を確保していたはずである。しかし、一部の住民は立ち退くを拒否して居座った。

戦後の沖縄の人々は米軍を戦前の日本軍と重ね合わせていただろうから米軍も恐ろしい存在に見えただろう。米軍に抵抗したらひどい目に合わされると信じていただろうから強制土地接収に対して抵抗運動は起こさなかった。伊佐浜の住民が自然発生的に激しい抵抗運動を起こすことはあり得ないことである。なぜ、伊佐浜は激しい抵抗をやり銃剣とブルドーザーによって強制接収されたのか。それには原因がある。伊佐浜の激しい抵抗運動の裏には沖縄の非合法共産党の存在があった。そして、伊佐浜の激しい抵抗運動は日本共産党が本気で暴力革命を目指していたことに深く関係していた。

1950年(昭和25年)6月6日 にマッカーサーは日本共産党幹部逮捕と日本新聞協会代表に共産党員の追放を勧告して、日本共産党中央委員24名を公職追放した(レッドパージ)。
レッドパージは、連合国軍占領下の日本において、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)総司令官ダグラス・マッカーサーの指令により、日本共産党員とシンパ(同調者)が公職追放された動きに関連して、その前後の期間に、公務員や民間企業において、「日本共産党員とその支持者」とした人々を解雇した動きを指す。1万を超える人々が失職した。「赤狩り」とも呼ばれた。

米国本国では、上院議員ジョセフ・マッカーシーが、1950年2月「国務省には205人のスパイがいる」と告発した。彼の告発は「マッカーシー旋風」「赤狩り」と呼ばれ、戦中のルーズベルト大統領の側近者の多くが共産主義者として告発され、共産党員や共産党シンパと見られる人々が排除されていった。チャールズ・チャップリンをはじめ優れたハリウッド関係者も多数追放となった。後に大統領となるジョン・F・ケネディなどの多くの民主党員は赤狩りを強く支持した。

1952年(昭和27年)4月28日のサンフランシスコ講和条約発効とともに連合国軍最高司令官総司令部は活動を停止した。GHQのの日本統括が終わったので、レッドパージはなくなり日本共産党は復活した。朝鮮戦争は続いていた。この時が日本で革命を起こすチャンスであると中国に亡命していた徳田球一と共産党は考えた。そして、1952年から53年にかけて警官殺害も含めて多くの事件を起こした。毛沢東が山村の農民たちを解放していった革命を成功したことを真似て、徳田球一は「山村工作隊」を結成して日本の山村から革命を起こそうと考えた。
伊佐浜の土地接収反対運動は1953年であり、本土の共産党の暴力革命運動と同じ時期である。本土と沖縄であるから関係がないように思えるが、そうではなかった。密接に関係していた。

沖縄は米民政府が統括していたからレッドパージは継続していた。沖縄では共産党は政党して認めなかった。だから、沖縄では共産党を名乗らず人民党を名乗った。瀬長亀次郎は人民党の委員長となり、那覇市長や立法院議員になった。
沖縄には人民党があったから共産党はなかったと思うだろうが、そうではなかった。沖縄に共産党はあった。政党しては認められていないし活動も禁じられていたので非合法共産党として結成した。沖縄に非合法共産党が存在していたのである。予想していなかった事実である。非合法共産党は本土の共産党本部の指示を暗号などを利用して受けていた。 

奄美共産党の働きかけによって生まれた沖縄の非合法共産党については,合法政党沖縄人民党の影に隠れて,公然と語られることは少ない。それは,沖縄人民党自身が米軍から「共産主義者」として弾圧されてきた「反共攻撃」の歴史と重なり合い,人民党幹部が共産党員であることは厳しく秘匿されてきた歴史と関わっている。ようやく最近になって,当事者の一人である国場幸太郎氏が,「現代世界史の中の沖縄」(『現代思想』2000年6月号),「沖縄の50年代と現在」(『情況』2000年8/9月号)などで,なお断片的だが,その存在を語り始めている。
     加藤 哲郎(一橋大学大学院教授・政治学)
沖縄には人民党とは別に非合法共産党が存在していたのだ。このことはほとんどの人が知らないだろう。しかし、非合法共産党が存在していたのは事実である。ネットで調べていくと非合法共産党員として国場幸太郎と言う人物が浮上した。

1952年11月の末党地方委員会は中央から派遣された同志国場幸太郎が持って来た党中央の指導によって,
(1)中央に南方地域特別対策委員会がつくられたこと,
(2)琉球の党組織はこの下におかれること,
(3)現在の党組織とメンバーを正式な正規の手続きがとられるまで暫定的に認めること,
(4)急いで正式な手続を完了する旨の指示を受けた。
 「 金沢資料1 党文書「琉球人民党改正綱領草案」
国場幸太郎という人物が共産党中央からの指令書を持ってきた。指令書によって沖縄の非合法共産党は組織づくられ、運動を強化していった。
1954年8月31日付沖縄タイムスは「東大政経部卒業のK君が日共本部から正式党員として潜行、人民党の組織細胞に相当食い入っている…」と報じている。国場幸太郎が共産党員であることは米民政府はすでに知っていた。
国場は、那覇商業高校の教師に内定していたが、取り消されていた。教員になれない国場は建設会社に働きながら、
人民党真和志支部に属し〝表〟の活動をする一方で、非合法共産党の活動をやった。
国場幸太郎という名前は国場組の元社長と同姓同名である。沖縄には国場組の国場幸太郎と共産党員の国場幸太郎が居たのである。国場組の国場幸太郎は有名であり多くの県民が知っているが共産党の国場幸太郎は表で活躍はしていないから無名でありほとんどの県民は知らない。国場幸太郎は1951年に日本への「留学生」として東京大学経済学部に進学している。彼は中央と沖縄の共産党との連絡係りだった。そして1953年沖縄に戻り活動をした。
彼は伊佐浜土地闘争に深く関わっていたことを、「米軍の武力土地接収と農民の抵抗――伊江島・伊佐浜の闘争」で語っている。

1955年1月18日、那覇市内の人民党本部にいる私のもとに、全く予想していなかった知らせが届いた。2年前からアメリカ軍の土地接収に反対してきた伊佐浜が土地接収を承諾したというのである。すぐに私はバスに乗って伊佐浜に駆けつけた。私はそれまでに何度も伊佐浜を訪れていて、区民の皆さんとは遠慮なく話し合える間柄になっていた。
ところが、その日、男たちは話すのがつらいのか、伏し目勝ちに顔をそむけて、話に応じてくれない。対照的に婦人たちは、心配な気持ちをそのまま訴えるように話していた。水田の側を流れるせせらぎで洗い物をしている年老いた農婦は、私を見上げる目に涙を浮かべて、「この田んぼが取られるくらいなら、私も一緒に埋めて欲しい」と嘆き、悲しんでいた。また、赤ん坊を胸に抱きしめた農婦が、庭に立ちつくしたまま、「土地接収を承諾してから、男たちは酒を飲んでやけくそになっています。男はそれですまされるかも知れません。しかし、生し子生し出じゃちゃる女や、あねーならぬ(子どもを産み育てる女はそうはしておれない)。」と母親としての気持ちを切々と語っていた。そういう婦人たちの声を聞いて、何とかしなければならないと思い、私は区の幹部の人たちと粘り強く話し合った。その結果、幹部の一人が次のように語った。
「誰だって田んぼを取られることには反対だ。しかし、この13万坪の水田を持っている伊佐(通称伊佐浜)喜友名、新城、安谷屋の4区のうち、他の3区は、〝伊佐浜が反対すると、自分たちの区の軍作業員までも首になる〟とか〝貰える補償も貰えなくなる〟とか、脅かされて、伊佐浜に文句をつけている。それに行政主席や村長なども頼りにならない。もう私たちだけではどうにもならない。」
「米軍の武力土地接収と農民の抵抗――伊江島・伊佐浜の闘争」

※伊佐浜は土地接収を承諾したと国場幸太郎は書いてある。承諾したということは米民政府の交渉係に承諾したと伝えたことになる。国場の文章で分かることは、伊佐浜以外の喜友名、新城、安谷屋の3区はすでに承諾していたことである。それに補償ももらえるのである。このままなら「銃剣とブルドーザー」の強制土地接収にはならなかったはずであるが国場が暗躍して状況が変わる。

この話を聞いて、私は、人民党を始め労働組合や教職員会等すべての民主的大衆団体に対するアメリカ占領軍の弾圧が伊佐浜の人たちを如何に深い孤立感に陥れているか、痛切に実感させられた。そこで私は次のように提案した。
「沖縄には皆さんの土地闘争を支援する気持ちを持った人が沢山います。ただ、何をすればよいか分らないので、黙っているだけです。立法院も皆さんが働きかければ、親身になって動くはずです。試みに、私が人民党の大湾議員の他に社大党の議員も連れてきますから、座談会を開いて、皆さんの気持ちを率直に聞いてもらってはどうでしょうか。」
幹部たちは、これまで行政主席や立法院に陳情してきた経験から、いぶかしげだったが、議員が来てくれるなら座談会を持ってもいいということになった。
翌日の早朝、私は社大党の西銘順治・立法院議員を自宅に訪ね、ことの次第を話して、座談会への出席を要請し、承諾を得た。それから伊佐浜とも連絡をとって、1月28日に座談会を持つ段取りをつけた。
ところが、当日は約束の時間になっても議員の姿がなく、伊佐浜の人たちの顔には失望の色がありありと浮かんでいた。私は那覇に取って返して、立法院に行き、個室でためらっている西銘議員の言訳を聞くのもそこそこにして、西銘・大湾両議員と一緒に立法院の公用車で伊佐浜に駆けつけた。
立法院議員が来てくれたということで、伊佐浜の人たちは大変喜び、男も女も殆ど全員が座談会に集まった。そして、伊佐浜の人たちの訴えを聞いて心を動かされた西銘議員は、社大党が全党あげて伊佐浜の土地闘争を支援するよう党内に呼びかけるほか、立法院でも支援決議するように働きかけることを約束した。
西銘議員のその言葉に元気づけられて、伊佐浜区民は土地闘争を今一度建て直す相談を始めた。そこで、土地接収に男は一旦承諾したけれども、女は反対だということで闘いを再構築する運びになった。ここまで話が進むと、「女や戦ぬ先駆(イナグヤイクサヌサチバイ=いざとなると女はたたかいの先頭に立つほど強い)」、「男女同権はアメリカが教えてくれたことではないか」などと冗談も飛び出して、みんな生き生きとなった。

3日後の1月31日、伊佐浜の婦人たちは行動を起こして、行政主席に面会し、土地接収に反対の意思を伝えるとともに、主席が住民の側に立つことを要請した。同じ日、西銘順治は社会大衆党所属の立法院議員である桃原亀郎、大山朝常、平良良松、中里猛らと一緒に伊佐浜を訪れて実情を聴取し、社会大衆党も伊佐浜の土地取り上げ反対闘争に全党を挙げて取り組むことになった。
「米軍の武力土地接収と農民の抵抗――伊江島・伊佐浜の闘争」
※正式には伊佐浜は土地接収に応じることになったのである。もし、それを取り消すのなら米民政府と交渉をするべきであった。ところが国場は非合法共産党員である。彼の正体は米民政府に知られているし、伊佐浜の土地闘争に関わっていることも知られている。だから彼は米民政府と交渉する考えは毛頭なかっただろう。沖縄の政治家たちを反対運動に賛成させることが国場ができることであった。だから彼は伊佐浜の主婦たちを行政主席に合わせた。
しかし、主婦たちだけが反対しても伊佐浜全体の反対にはならないし、交渉相手は行政主席ではない。米民政府である。国場は立法議員に伊佐浜土地接収反対に参加するように呼びかけたが、そんなやり方では正式に承諾を取り消すことはできるはずがない。

アメリカ占領軍は、3月11日、いきなり伊佐浜水田地帯の一角で整地作業を始めた。それを見た伊佐浜区民は男も女も総出して、作業現場のパワー・シャベルが空中高く上がった隙を見計らってその下に座り込み、作業を止めさせた。すると隣接するキャンプ(兵営)に待機していた完全武装部隊が出動して来て、銃剣を突きつけ、銃床で殴って、座り込みの伊佐浜区民を退去させた。しかし、作業も中止され、この時はそれですんだ。米軍はどのくらいの抵抗があるか、小手調べしたようである。
強制接収が予定されている7月18日、伊佐浜には早朝から幾百、幾千という人たちが農民の土地闘争の支援に駆けつけた。そのために、その日はアメリカ軍も手を出さなかった。強制接収は、支援の人たちが家に帰って、地元の区民の他は2、300人しか泊り込んでいない深夜に始まった。
午前3時頃、水田地帯の一角から重車両の動く音が聞こえてきた。しかし、真っ暗闇で、その姿は見えない。水田地帯のすぐ側を通っている軍用道路の彼方からも轟々という不気味な音が聞こえてくる。音がだんだん近づいてきた所をよく見ると、武装兵を満載したトラックと、これまた武装兵を両脇に乗せたブルトーザーが、ライトを点けずに、何台も何台も徐行して来るではないか。そして、空がうっすらと白みかける頃には、13万坪の水田地帯はすっかり武装兵に包囲され、ブルトーザーが32戸の住居があるに突入していた。海の方ではドレッジャー(浚渫船)が汽笛を鳴らしながら伊佐浜の海岸に近づいて、海水と一緒に砂を流し込むパイプを水田地帯に向けて繋いでいく。それは戦争さながらの海陸両面作戦で、琉球軍副司令官ジョンソン准将が陣頭に立って指揮をとっていた。
夜が明けた時には、水田地帯の周りに有刺鉄線が張り巡らされ、大勢の作業員が水田の畦を次々と切り崩していた。支援に駆けつけた人たちは武装兵に阻まれて近づくことが出来ず、怒りに震えながらアメリカ軍の仕打ちを見守っているばかりであった。
伊佐浜の区民もこうなっては手の施し用が無く、金網の中に入った32戸の家屋に座り込み、最後の抵抗を示した。それをアメリカ兵たちは銃剣やピストルを突きつけて追い出した後、家屋の取り壊しにかかった。
先ずの入り口にある店の屋根に鶴嘴が打ち込まれた。剥き出しになった梁にロープがかけられ、それをブルトーザーが引っ張って、家は引き倒された。倒れた家の木材等は家財道具もろともブルトーザーで寄せ集め、ダンプカーに積んで、海岸に捨てに行く。このようにして32戸の家屋が次々と取り壊された。水田にはドレッジャーが海底から吸い上げた砂を海水と一緒に流し込み、水田は見る見るうちに砂で埋められていった。
「米軍の武力土地接収と農民の抵抗――伊江島・伊佐浜の闘争」

※米軍が整地作業を始めたのは伊佐浜が土地接収を承諾したからである。ところが伊佐浜の住民が整地作業を阻止しようとした。国場は伊佐浜の住民と書いているが、阻止しようとしたのは伊佐浜の一部の住民であっただろう。非合法共産党員も一緒だったかもしれない。彼らを米軍から見たら伊佐浜の住民ではなく暴徒であっただろう。承諾したのに阻止しようとする住民が居たのは米軍にとって予期せぬことであった。作業員の危険を感じた米軍は部隊を出動させて「銃剣を突きつけ、銃床で殴って」座り込みの暴徒たちを退去させたのである。
7月18日には幾千という人たちがやってきた。彼らは国場たちが動員をかけた、教員、公務員、軍や民間の労働者たちである。米軍が彼らを実力で排除のは簡単である、しかし、排除することはしなかった。米軍は民間人を弾圧するのを極力避ける。それが民主主義国家米国の軍隊である。
 米軍は民間人と争うことがないように圧倒的な軍隊を動員し、作業場に侵入しないように有刺鉄線を張り巡らしたのである。作業員はみな沖縄人である。米兵ではない。
伊佐浜の住民が32個の家屋に座り込んだというが、彼らは住民の一部であり代表者ではない。伊佐浜の代表者は土地接収を承諾したのだ。
米民政府は2年前に住民が住んでいる伊佐浜、喜友名、新城、安谷屋の4区の土地を接収することを通達した。移転場所は米民政府が準備し、補償金も出す約束をした。喜友名、新城、安谷屋の3区は承諾した。伊佐浜だけは承諾しなかった。しかし、最終的には承諾した。だから米民政府は家の取り壊しと田んぼの埋め立てを始めたのである。ところが一部の伊佐浜住民が作業現場で座り込み闘争をした。彼らを排除するために米軍が実力行使したことを県は「銃剣とブルドーザー」で強制接収したといっているのである。

国場幸太郎が知られていないのは、彼は1960年に共産党を脱退して東京に移り住み、その後は政治活動をしなかったからである。脱退したのは党の方針に疑問を持ったからである。彼は悩み苦しみ、活動ができない状態になった。彼の異常に気付いた仲間たちが彼を入院させたこともあった。沖縄をさる時に国場は、
「一見してゆるやかなようで、その実は大きなうねりをもって発展しつつある現在の複雑な情勢の下では、旧態依然とした活動のやり方では大衆運動を組織し、前進させることはできなくなっている」
と述べたという。

 伊佐浜の土地は接収されたが、非合法共産党の反対運動は成功したと言える。その後伊佐浜の土地は『銃剣とブルドーザー』で強制接収されたと宣伝して反土地運動が島ぐるみ闘争に発展したからである。
しかし、島ぐるみ土地闘争は衰退していった。そのきっかけをつくったのが辺野古である。米軍基地を受け入れたことで基地経済で辺野古の経済は空前の活況になる。五年間で辺野古の人口は4倍になり、多くの青年男女が、建設工事、PX(売店)、クラブ、メスホール(食堂)の職員として従事するようになり、彼らの給料は民間会社や地方公務員よりも高く、いわゆる軍作業の人気が高まっていった。辺野古の驚異的な発展の噂はまたたく間に県内に広がり、経済発展を望んで米軍基地を受け入れる村がどんどん増えていった。そのために土地闘争は衰退していった。
戦後人口増加率が一番高いのが宜野湾市である。土地の多くを接収された宜野湾市であったが基地経済の恩恵を一番受けたのも宜野湾市であった。そのことを住民が実感できたのは60年代からである。
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