辺野古移設問題を隠ぺいするタイムス社説

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辺野古移設問題を隠ぺいするタイムス社説

 2010年
3月8日 沖縄基地問題検討委員会で、社民が国外や県外移設、国民新がシュワブ陸上と嘉手納基地統合などの移設案を提案
3月26日 北沢俊美防衛相が仲井間知事との会談で「現行案は極めてゼロに近い」と明言
4月9日 鳩山首相が移設先として鹿児島県徳之島を明言。

 「できるなら国外。最低でも県外」を公約した鳩山首相は県外移設先の候補地を一か所も探すことができなかった。徳之島との事前交渉はなく、一方的に徳之島を候補地にあげた。すると、
4月18日 徳之島で「米軍基地徳之島移設断固反対1万人集会」に1万5000人が参加した。(徳之島人口の6割、沖縄本島なら70万人以上に匹敵する)

4月20日 徳之島3町長が平野博文官房長官との会談を拒否

徳之島の強烈な反対運動に徳之島案はあっけなく頓挫した。鳩山首相は県外移設を諦めるしかなかった。

 県外移設が不可能であることを知らしめたのが徳之島移設の頓挫だった。
      
5月4日 鳩山首相は初来県し県内移設を明言した。
5月10日 米軍普天間飛行場をめぐる関係閣僚会議で現行案を修正する形での移設案を確認した。
5月23日 鳩山首相が再来県し、名護市辺野古への移設を明言した。
5月28日 日米両政府が辺野古崎地区とこれに隣接する水域を移設先とする共同声明発表した。
6月4日 鳩山氏が首相退陣、菅直人氏が首相に就任し、日米合意の踏襲を明言した。

2010年6月4日で辺野古移設の政治決着がついたと判断するのが常識である。

だが、翁長知事も沖縄タイムスもこの事実を無視している。

翁長氏は、政府が前知事の埋め立て承認を唯一のよりどころとして移設作業を強行していることに「県外移設の公約をかなぐり捨てた承認」だと正当性に疑問を呈した。
 タイムス社説[翁長・安倍会談]「辺野古」新たな段階へ
 菅官房長官は、仲井真知事が埋め立て承認をしたから粛々と埋め立て作業をすると繰り返し述べた。仲井真知事の埋め立て承認を唯一のよりどころにしているという翁長知事の指摘は的を得ている。また、仲井真知事は県外移設のほうが早いなどと言い、県外移設を主張していたことは否定しようがない。それなのに埋め立て承認をしたのは「公約をかなぐり捨て」と言われても仕方のないことである。
 
 しかし、鳩山首相時代に県外移設が不可能であることがはっきりした、辺野古移設が最終的に決着したのは自民党政府時代ではなく、民主党政府時代である。その事実を翁長知事とタイムスは隠蔽している。

 最初は県、名護市、辺野古区民は辺野古移設に反対していた。政府は地元の要求を受け入れながら会談を重ね、、お互いに妥協をして、県知事、前名護市長、辺野古区民が辺野古のV字型滑走路飛行場建設に賛成した。その時点で辺野古移設は政治的に決着したのである。
 政治決着から五年も経過した今になって県知事や名護市長が辺野古移設反対を主張したからといって建設を中止できるわけがない。

 政府が仲井真知事から埋め立て承認を得たから埋め立て作業をするという説明は県民に誤解を与えるからまずいと思う。この説明はまるで埋め立てを承認するかしないかは仲井真知事の政治判断であったような印象を県民に与える。翁長知事は「県外移設に反対していたのに埋め立てを承認した」と指摘して、仲井真知事の裏切り行為を非難し、仲井真知事が埋め立て承認をしたのは仲井真知事の政治判断あったような印象を与えている。
 仲井真知事が埋め立てを承認したのは政治判断からではない。防衛局が提出した埋め立て申請は県土木建築課が公有水面埋め立て法に則って審査した結果、瑕疵がないと判断したからである。埋め立てを承認したのは本当は県土木建築課であって仲井真知事ではない。仲井真知事は形式的に承認手続きをやっただけだ。そこのところを政府はちゃんと説明していない。

「普天間飛行場の移設は唯一辺野古しかない」を繰り返す政府に対して、翁長知事は、「辺野古基地ができない場合本当に普天間は固定化されるのか」と政府に質問している。翁長知事の質問はもっもらしく、正しいのは翁長知事である錯覚を県民に与える。そのような質問をされるのは政府の説明がちゃんとしていないからだ。
 政府は、
「鳩山首相時代に県外移設と国外移設は非常に困難であることが判明した。徳之島の場合は米軍基地徳之島移設断固反対集会に島民の6割が集まった。
県外移設も国外移設もが不可能だと知った鳩山首相は再び辺野古移設に戻った。
2010年6月4日、菅直人氏が首相に就任し、日米合意の踏襲を明言した。その時に辺野古移設が最終的に決まった。
仲井真知事が埋め立て承認をしたのは県土木建築課が防衛局の埋め立て申請に瑕疵がないと判断したからであり、仲井真知事の政治判断は一切関係がない」
と主張してほしいものである。
 短くすると、
「県外国外移設がてきないことを認識した民主党政権が辺野古移設に再び戻り、その時に県、名護市、辺野古区、米政府が賛成した。そして、公有水面埋立法に則って仲井真知事は辺野古埋め立てを承認した。だから、政府は埋め立て作業に着手した」
となる。
 県民に誤解を与えない答弁を政府はもっと考えるべきである。

 米太平洋軍司令部戦略計画・政策部長のマイケル・ダナ少将は17日、米上院歳出委員会の公聴会で、「代替施設ができない限り、普天間から移ることはない」と述べ、同飛行場の返還は代替施設の建設完成が条件になるとの認識を改めて示した。
鳩山元首相は最近のコメントで「県外移設は不可能ある。国外移設をしたほうがいい」と述べている。.


 翁長知事は知事選に立候補した時からずっと普天間飛行場の県外移設を主張していた。翁長知事の普天間飛行場の唯一の解決は県外移設であったが、菅官房長官との会談では県外移設を一言も言わなかった。
しかし、知事選の時には仲井真知事が県外移設から辺野古移設に公約を転換したのを非難し、自分はぶれないで県外移設を主張し続けていると県民に訴えた。ぶれない翁長は県民に好感を与え、知事選圧勝につながった。
 それなのに菅官房長官との会談では県外移設に口封じをしているのである。口封じどころか、
「自ら土地を奪っておきながら、老朽化したから、世界一危険だから沖縄が負担しろ、嫌なら代替案を出せというこんな理不尽なことはないと思う」
と居直っている。翁長知事は東京行動の時も知事選挙選の時も県外移設を代替案として主張していた。知事になっても県外移設を主張していた。公明党も県外移設を公約にしていた。
 知事選の公約は辺野古移設反対であったが、翁長知事の普天間飛行場の解決方法は県外移設であった。「県外移設はぶれていない」と豪語した。ところが菅官房長官との会談からは県外移設は口にしないで、逆に「嫌なら代替案を出せというこんな理不尽なことはない」と辺野古移設の代替案を出せというのがひどい仕打ちであると政府を非難したのである。
 あんなに県外移設を主張して県知事になったというのに、県外移設の主張は引っ込めて、政府が代替案を県に要求することが理不尽であると翁長知事は言ってのけたである。逆に言えば県外移設は辺野古移設案の代替案にならないことを翁長知事が暗に認めたことになる。そして、翁長知事には代替案がないことを自白したのである。
代替案として県外移設に自信があるなら菅官房長官や安倍首相に県外移設を堂々と主張したはずである。しかし、翁長知事は県外移設を一言も主張しなかった。県外移設が不可能であることは翁長知事も認識している。菅官房長官や安倍首相には県外移設は通用しないことを知っているのだ。だから、県外移設を主張してきたことを隠したのである。
 県外移設は県民の支持を得ることはできても現実的に実現不可能であるから政府には通用しない。それを知っている翁長知事は「嫌なら代替案を出せというこんな理不尽なことはない」と居直ったのである。翁長知事は県外移設を県民に約束してきた。翁長知事を信頼した県民は県外移設ができると信じてきた。翁長知事の居直りは県外移設を信じた県民への裏切りである。

 翁長知事は沖縄の米軍基地について「戦後、銃剣とブルドーザーで強制接収された」と、歴史的経緯や不平等性を訴え、「土地を奪っておきながら、老朽化したとか、世界一危険だからとか、嫌なら代替案を出せというのは、こんな理不尽なことはない」と強く反発した。戦後一貫して日米安保の過重な負担を押し付けられたウチナーンチュの思いを、明快な言葉で表現した。
  タイムス社説[翁長・安倍会談]「辺野古」新たな段階へ
 何千回と目にする「戦後、銃剣とブルドーザーで強制接収された」である。「銃剣とブルドーザー」を語るときに出るのが伊佐浜と伊江島である。
3月11日 伊佐浜土地闘争(1955年)
 1955(昭和30)年3月11日、米軍は宜野湾村(現宜野湾市)伊佐浜の住民に土地を接収すると通告してきました。それに対して、伊佐浜区の住民と各地からかけつけた支援者は座り込みで反対しました。
 この日から遡ること2年前、米軍は1953(昭和28)年4月3日に琉球列島米国民政府布令第109号「土地収用令」を公布し、同年4月11日に真和志村(現那覇市)の銘苅と安謝の一部、ついで天久と読谷村渡具知、同年12月には小禄村具志で土地接収を強行しました。 

 
 伊佐浜の水田は収穫量も多く、戦前から「チャタンターブックヮ」(北谷のたんぼ)」と呼ばれる美田が広がっていました。戦時中も米軍の土地接収からもまぬがれ、戦後もかつてのように稲が植えられていました。
 米軍は1954(昭和29)年12月に住民へ立ち退きを勧告しましたが、翌年1955年3月11日、武装兵とブルドーザーを出動させ、約3万坪の土地を接収しました。また3月14日には、伊江島の真謝でも約300人の武装兵が島に上陸し、家から住民を追い出した後、13戸の家屋をブルドーザーで破壊して焼き払い、10万8千坪の土地が米軍に接収されました。
 その状況に対し、琉球政府立法院でも住民の生命と財産を守る基本的な立場から米側に対して軍用地収容取り止めの請願を再三行いました。
「土地収用家屋立退き指令撤回要求決議案」第5回臨時第5号 1955年3月4日 PDF(324KB)
 同年7月11日、米軍はさらに伊佐浜の土地を10万坪(立ち退き家屋32戸)接収すると通告し、住民は「土地取上げは 死刑の宣告」などのノボリを立てて反対しました。しかし、7月19日の夜明け前、武装兵に守られたブルドーザーやクレーンにより家屋が取り壊され、32戸136名の住民が住む家を失いました。
 この土地の強制収容は県民に大きな衝撃を与え、米軍の占領支配への抵抗運動として「島ぐるみ闘争」へと発展していきました。
     「沖縄県公文書」
 社会主義国家ソ連の拡大、中国や北朝鮮の社会主義国家化、そして、朝鮮戦争(1950年6月25日 - 1953年7月27日休戦)などアジアは社会主義が拡大していったた。拡大を防ぐために米政府は沖縄の米軍基地を強化する決心をしたのである。
 土地接収はアジア情勢と深く関係していることを認識するべきである。
 読谷村では楚辺と渡久地が全体強制撤去されたが、伊佐浜のような反対運動はなかった。米軍は代替地を確保して、楚辺や渡久地の人たちは新しい場所へ移った。渡久地は私が住んでいた比謝の隣に引っ越してきたから覚えている。原野であった土地をブルドーザーで平地にして道路はまっすぐのをつくった。強制撤去ではあったが銃剣とブルドーザーで無慈悲に追い出すというものではなかった。

伊佐浜の場合は「土地取上げは 死刑の宣告」と米軍の立ち退き通告を拒否したので米軍は強制的に接収したのである。沖縄は戦争に負けた。それなのに伊佐浜は激しく抵抗したのである。圧倒的な米軍を相手に普通の沖縄の人たちなら伊佐浜のような抵抗ができるはずはなかった。徹底抗戦したのはバックに共産党が存在していて、伊佐浜の土地闘争を裏で指揮していたからである。中心人物は共産党員の国場幸太郎という国場組の社長と同姓同名の人物であった。彼は米軍に逮捕され、拷問を受けて共産党員の名前を自白する。それが原因で、仲間を米軍に売ったと瀬長亀次郎に非難され人民党=共産党から除名される。
 
強制土地接収は伊佐浜や伊江島以外にもあったが、徹底して抵抗したのが伊佐浜と伊江島であった。他の場所は激しい抵抗はなかった。

 それしても伊佐浜土地闘争を扱う時はいつも「島ぐるみ闘争」が伊佐浜の銃とブルドーザーで強制接収されたのをきっかけに土地闘争が発展したことを書くで、「島ぐるみ闘争」が衰退したことは書かない。「島ぐるみ闘争」はあることをきっかけに衰退したのである。そのきっかけをつくったのが辺野古であった。
 辺野古は「島ぐるみ闘争」の最中に条件付きで米軍の土地接収を受け入れた。「土地取上げは 死刑の宣告」だと伊佐浜では徹底抗戦をやったのに辺野古では逆に土地接収を受け入れたのである。どんなに反対しても伊佐浜のように強制接収されるのなら、条件をつけて受け入れをするというのが辺野古民の考えだった。
 辺野古民の出した条件は、
Ⅰ 農耕地はできるだけ使用しない。
2 演習による山林利用の制限。
3 基地建設の際は労務者を優先雇用する。
4 米軍の余剰電力および水道の利用
5 損害の適正保障
6 扶養地の黙認耕作を許可する。
の6項目であった。要求がすべて受け入れら他のではないが、米軍と辺野古区は友好関係になり、キャンプシュワブが建設された。
 すると、辺野古の経済は空前の活況になる。五年間で辺野古の人口は4倍になり、多くの青年男女が、建設工事、PX(売店)、クラブ、メスホール(食堂)の職員として従事するようになり、彼らの給料は民間会社や地方公務員よりも高く、いわゆる軍作業の人気が高まっていった。
 水道の整備は米民政府の援助で行われた。辺野古の土地造成工事も米民政府が陣頭指揮をとって協力した。辺野古の驚異的な発展の噂はまたたく間に県内に広がり、経済発展を望んで米軍基地を受け入れる村がどんどん増えていった。そのために土地闘争は衰退していった。
 基地経済が沖縄を貧困から救うということが分かった時から、沖縄は米軍を受け入れるようになっていったのである。
 米軍基地にひたすら反対し続けたのが沖縄二紙、共産党などの革新政党であった。沖縄の歴史を革新や沖縄二紙は沖縄の人々が米軍基地を歓迎した歴史的事実を隠蔽している。
 
 安倍首相が「辺野古への移転が唯一の解決策である」と従来の考えを繰り返したことについても翁長氏は異論を展開。「安倍首相は、固定観念に縛られず、まずは辺野古への移設作業を中止することを決断してほしい」と求めた。
強力な政治のリーダーシップがあれば政策の変更は可能である。選択肢のない政策などあり得ない。これこそ翁長氏が5日の菅義偉官房長官との会談でも指摘した「政治の堕落」である。
  タイムス社説[翁長・安倍会談]「辺野古」新たな段階へ
 日本は独裁国家ではない。議会制民主主義国家である。辺野古移設は政府が努力と妥協と経済援助の交渉を積み重ねて地元の承諾を得て初めて可能になったのである。もし、政府の提案に地元が反対していたら辺野古移設は実現しなかった。
県外移設は不可能であったが辺野古移設が可能になった原因には日本全国にはない辺野古の特別な好条件があったからである。
第一の好条件は辺野古飛行場建設地は米軍基地であるキャンプシュワブ内であったことである。辺野古なら飛行場建設をするための新たな土地接収する必要がなかった。沖縄でも本土でも米軍基地をつくるために新しい土地を接収するのは困難である。復帰前であったが昆布や喜瀬武原など新たな土地を接収しようとしたが革新や地元の住民の強い反対運動のために土地接収することができなかった。復帰後ならなおさら困難である。本土でも米軍基地のために新たな土地を接収することは困難であるだろう。米軍基地内であるから米軍飛行場建設が可能である。
第二の好条件は周囲は海囲まれていることである。たとえ事故が起きても人災はない。住民の住む場所から一キロも離れているから騒音被害も低い。
第三の工事要件はV字滑走路にすることによって人家の上空を飛ばないことである。

このような好条件があったから地元も受け入れたのである。辺野古のような好条件の場所は県内にも県外にもない。

 タイムスは「強力な政治のリーダーシップがあれば政策の変更は可能である。選択肢のない政策などあり得ない」と述べているがそれは間違いである。
 徳之島では6割の人口が受け入れ反対の集会に集まったのである。強力な政治のリーダーシップがあっても徳之島の人々が受け入れることはあり得ない。徳之島の人々が受け入れに賛成しない限り徳之島に移設するのは不可能である。ところがタイムスは強力な政治のリーダーシップあれば受け入れさせることができるというのである。つまり民意を政治力でひっくり返せると言っているのである。それは独裁政治思想である。議会制民主主義国家の日本では強力な政治のリーテダーシップがあってもできないものがある。
 そもそも、辺野古移設反対は民意だから辺野古移設はできないと翁長知事もタイムスも主張している。その主張は他の県でも受け入れに反対が民意であれば移設をすることはできないと主張していることになる。つまり、「強力な政治のリーダーシップ」があっても地元が反対すれば移設はできないとタイムスは主張しているのだ。沖縄の場合は民意が優先し、他県は強力な政治のリーダーが優先するというタイムスの理屈は矛盾している。


政府が、1999年に当時の稲嶺恵一知事と岸本建男名護市長の受け入れ表明を受け、閣議決定がなされたと移設の正当性を主張していることについても翁長氏は反論
した。
 稲嶺知事は代替施設の軍民共用や15年使用期限、岸本市長も基地使用協定締結などを前提条件としていたが、その後、政府は県との協議もないまま閣議決定をほごにした。翁長氏は「前提条件がないことになり、受け入れたというのは間違いだ」と、政府の都合のいい解釈を断じた。
タイムス社説[翁長・安倍会談]「辺野古」新たな段階へ
 都合のいい解釈をしているのはタイムスの方である。辺野古移設が政治決着したのは1999年ではなく、民主党政権時代の2010年である。鳩山首相は「できるなら国外、最低でも県外」と公約したのに県外移設場所を探すことができなかった。県外移設を断念した鳩山首相は再び辺野古移設に戻った。辺野古移設問題の核心は2010年にあるのであって1999年にはない。
 都合のいい解釈をしているのはタイムスの方である。
    
 政府は、日米首脳会談で確実に沖縄の声を米側に伝えるべきだ。もし伝えずに両政府が首脳会談で辺野古推進を確認するようなことがあれば、「沖縄切り捨て」と見ざるを得ない。沖縄の声を無視して移設を強行することがあれば逆に日米関係にさまざまなマイナスが生じるだろう。
 翁長氏は菅氏や首相との会談で沖縄の声を代弁し、求心力をこれまで以上に高めている。辺野古移設問題は新たな段階に入ったといえる。
  社説[翁長・安倍会談]「辺野古」新たな段階へ
   沖縄タイムス 4月18日(土)5時30分配信
「辺野古基金」は1週間で寄付4600万円になったという。
同基金の共同代表に現在までに発表されている6氏に加えて、県出身報道カメラマンの石川文洋氏も就任するという。
「基金」の共同代表にはすでに、前嘉手納町長の宮城篤実氏、金秀グループの呉屋守将会長、かりゆしグループの平良朝敬CEO(最高経営責任者)、沖縄ハム総合食品の長浜徳松会長、元外務省主任分析官の佐藤優氏、俳優の故菅原文太さんの妻・文子さんが就任している。
 タイムスのいうように辺野古移設問題は新たな段階に入ったといえる。
 翁長知事の求心力はこれまで以上に高まっているかも知れない。しかし、一方では辺野古移設反対派の辺野古区民の会は解散し活動18年に終止符を打った。反対運動新たなスタートといっても解散は後退である。
 辺野古移設反対が盛り上がっているのか盛り下がっているのか微妙である。
 
 タイムスは新たな段階に入ったと述べているが、新たな段階に入ろうが入るまいが、辺野古埋め立てを阻止する方法はたった一つであり、それは変わらない。
辺野古埋め立てを阻止する方法はひとつ、政府に埋め立てを断念させることである。
 暴力で埋め立て作業を阻止する方法はないとは言えないが、抗議船数隻にカヌー隊は20隻にも達していない。たったそれだけでは海保を突破することはできない。暴力で埋め立て作業を阻止するのは不可能である。
 法的にも無理である。たとえ裁判闘争に持ち込んでも裁判で勝つことはできない。

 ボーリング調査が終わり、埋め立て予定地の周囲をケーソンで囲ったときに埋め立てを阻止することができないことを多くの県民は実感するだろう。辺野古移設反対に賛成の県民は減っていくだろう。
ケーソンが埋立地の周囲を囲っても移設反対を主張する翁長知事への県民の支持は減っていくだろう。

安倍政権と米政府はより親密な関係を築いている。集団的自衛権の行使、TPP、AIIB(アジアインフラ投資銀行)等々、日米政府にとって大きな問題が山積みである。辺野古問題は日米政府にとってそれほど重要な問題ではない。日本政府はなんとしても辺野古に移設したいだろうが、米政府は普天間飛行場が移設できなければそのまま普天間に居座ってもいいと思っている。
安倍首相は米の国会演説をするくらいに米政府と緊密さを増している。それなのに「沖縄の声を無視して移設を強行することがあれば逆に日米関係にさまざまなマイナスが生じるだろう」とタイムスは述べている。辺野古移設問題が日米政府に影響を与えると過信しているタイムスはおかしい。
タイムスの沖縄中心主義には呆れてしまう。時には世界地図を見た方がいい。タイムスは世界の中で沖縄がどんなに小さいかを認識するべきである。
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