キャラウェイが保守にも革新にも嫌われた理由

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キャラウェイが保守にも革新にも嫌われた理由

キャラウェイ弁務官の「沖縄の自治は神話」の演説は県民の「自治権拡大」の熱望に冷水を浴びせ、同日夕刊で立法院野党各党は猛反発したと沖縄紙は報道している。革新政治家たちは
「沖縄が植民地であることを弁務官自身が裏づけた民主主義の否定」(安里積千代社大党委員長)、
「弁務官は法なりの独裁支配、植民地支配」(岸本利実社会党政審会長)、「沖縄県民の解放の盛り上がりに弁務官が直接統治による弾圧に出ることを示す」(古堅実吉人民党書記長)
と、キャラウェイ弁務官は民主主義を否定し独裁支配、植民地支配をしていると非難した。
 それでは彼らの主張する民主主義、自治権とはどんなものであったか。それが分かる二つの事件がある。
ひとつはサンマ裁判であり、もうひとつは教公二法阻止闘争である。
 サンマ裁判はキヤラウェイ弁務官の次のワトソン弁務官に起こり、教公二法阻止闘争は1967年に起こった。キャラウェイ弁務官以後に起こったことであるが、自治権拡大運動が民主主義運動とはかけ離れたものであることがはっきりと分かる事件である。

サンマ裁判
 日本から切り離された沖縄を米民政府は独立国に近い存在であると考えていた。日本も外国だとしていたから「日本から輸入される鮮魚は『外国製品』だ」ということで布令を出して、20%もの輸入関税(物品税)をかけた。
 ところがサンマは物品税の品目に書かれていなかった。それに気づいた琉球政府は物品税の品目に加えて税を徴収したが、過去の分も徴収しようとした。それに輸入業者は反発した。物品税品目に書かれていなかった過去の分は徴収する権利はないと輸入業者は訴訟を起こした。一審判決で琉球の裁判官は輸入業者の主張を認めて輸入業者が勝訴した。
しかし、過去の物品税は払わなくてもいいという琉球裁判所の判決を否定したワトソン高等弁務官は米国民政府裁判所へ裁判を移送したのである。
サンマ裁判問題を革新側から見た文章を紹介する。
 
アメリカ高等弁務官のなした裁判移送命令の撤回に関する件(第五決議)沖縄のアメリカ高等弁務官が、琉球上訴裁判所に繋属中に友利隆彪から提訴された当選無効事件並びにサンマ事件と呼ばれる物品税加納金還付請求事件を、アメリカ民政府裁判所へ移送せよ、と命じたのは、沖縄県民の司法自治を否定し、且つ、基本的人権を奪うものである。
日本の代表的な大衆魚といえば、やっぱりサンマ。漢字で「秋刀魚」と書くように、秋ともなれば安くてうまいサンマを食べたくなるものですが、そうは問屋が卸さない・・・いや問屋も怒りを爆発させたのが飛び地の現実、異民族支配というもの。
脂がのった美味しいサンマが獲れるのは北日本の沿岸だ。そこで沖縄では本土から運ばれたサンマを売っているのだが、沖縄がアメリカに統治されていた頃、つまりアメリカの飛び地みたいだった時代、アメリカは「日本から輸入される鮮魚は『外国製品』だ」ということで布令を出し、20%もの輸入関税(物品税)をかけてしまった。

アメリカの都合で沖縄を占領し続けておいて、サンマのような庶民の魚にまで輸入関税をかけるとはヒドイ話だが、そもそもアメリカ側が出した物品税の布令の中には「サンマ」という項目がなかったから不当徴収だと、サンマ輸入業者が物品税を徴税していた琉球政府を相手取って起こしたのがサンマ裁判だった。

琉球政府の裁判所(中央巡回裁判所)は輸入業者の訴えを認めて、サンマに課税していた約4万6000ドルの物品税を払い戻すよう命じる判決を下し、琉球政府もこれを了承。「これからはサンマが安く食べられる!」と沖縄住民が喜んだのもつかの間、米国民政府は突然布令を改正して物品税の項目にサンマを加え、なおかつ布令改正前に遡及してそれまでに納付された物品税も適法と見なすことにしてしまった。アメリカ統治時代の沖縄で、植民地で言えば総督に当たる最高権力者が高等弁務官で、総督府に相当する政府が米国民政府。さらにその下で沖縄住民による自治政府のような存在だったのが琉球政府で、そのトップは主席であった。

沖縄人の裁判官(琉球政府の裁判所)が下した判決は敗訴したわけだが、怒ったワトソン高等弁務官は「琉球の裁判所には任せておけない」と、66年6月に米国民政府裁判所への移送、つまりアメリカ側の裁判所でアメリカ人の裁判官が裁くように命令した。
「飛地の秋刀魚」より
 沖縄の自治権の拡大を望む者たちには、ワトソン弁務官が米国民政府裁判所へ移送したことは、琉球側の裁判所の判決が気に食わないと、高等弁務官が強権を発動してアメリカ側の裁判所に案件を移す。それは沖縄の司法権や自治権の侵害、さらには沖縄住民の基本的人権に対する侵害だと考えたのである。

 革新派にとってサンマ裁判の判決が民主主義的に正しい判決であったかどうかは問題ではなかった。琉球裁判所の判決を弁務官の判断で米国民政府裁判所へ移送したことが問題であった。「アメリカ側の裁判所が裁いたら、アメリカに都合の良い判決が下されるに違いない」というのが革新派の考えであった。
 沖縄住民による抗議の嵐に対して、ワトソン高等弁務官は「布令無効判決を容認すれば米国の琉球における義務を放棄することになる」「沖縄の民主主義は20年だが、私は50年以上民主主義を経験している」と、沖縄の民主主義は未熟であると発言したのである。
革新派がワトソン弁務官が米国民政府裁判所へ移送したことを沖縄の司法権や自治権の侵害、さらには沖縄住民の基本的人権に対する侵害だと主張したことに対してワトソン弁務官は琉球裁判所の判決が民主主義か否かを問題にしたのである。

サンマ事件の根本的な問題は物品税である。「アメリカの都合で沖縄を占領し続けておいて、サンマのような庶民の魚にまで輸入関税をかけるとはヒドイ話だ」と輸入関税をかけるのはアメリカの都合でありサンマを安く食べられないのはひどいことだと非難している。しかし、物品税は米民政府ではなく琉球政府の収入になる。アメリカが金銭的に得することではない。
なぜ米民政府は物品税をかけたか。理由は琉球の産業を保護するためである。外国からの安い輸入品が琉球列島に出回ると島内で生産した物が売れなくなる。島内企業は破産してしまう。だから、島内産業を保護するためには物品税が必要だったのである。独立した国家が自国の産業を保護するために輸入品に関税をかけるのは常識である。
ところが琉球政府時代の沖縄では関税をかけるのは常識ではなかった。
革新派が求めている自治権拡大は民主主義社会を目指したものではなかった。琉球のことは琉球が決めるという独立論だったのである。独立と民主主義は違う。独立国には軍事独裁国家があるし、中国のような共産党独裁国家もある。
自治権拡大=民主主義と勘違いしていたのが革新派の政治家、運動家、識者であった。

サンマ裁判は1966年12月に米国民裁判所で判決が下された。
アメリカ人の裁判官は、サンマに対する課税は「物品税の課税項目は一例を挙げたものに過ぎず、『サンマ』という項目がなくても課税は有効」だと払い戻し請求を退けた。
「そもそもアメリカ側が出した物品税の布令の中には『サンマ』という項目がなかった」からサンマに物品税をかけるなという考えは物品税を理解していない証拠である。
物品税は琉球列島の産業を保護するのが目的である。本土から安い商品が流入すれば琉球の産業のほとんどは廃業に追い込まれるだろうし、新しい産業も生まれない。事実復帰した後は物品税がなくなり本土の安い商品が出回り、沖縄の製造業の多くはつぶれた。
 味噌醤油会社赤マルソウの創立に尽力したのが米民政府職員のサムエル・C・オグレスビー氏であった。赤マルソウ創立のために彼はボイラー、発電機、ポンプなどを米軍から払い下げるのに尽力した。
1951年に本土と自由貿易が始まった時、本土からの大量輸入で味噌醤油産業が大ピンチになった。そのピンチを救うために米民政府は1953年に「醤油の輸入全面禁止措置」の布令を出した。琉球の産業育成に心血を注いだことが理解できよう。自由貿易をモットーにしている米民政府だから輸入禁止は一時的であった。しかし、物品税を高くすることで沖縄の味噌醤油産業を保護した。
物品税は琉球の産業を保護育成するために必要だった。物品税は輸入品すべてに平等に適用するのが基本である。もし、物品税をかける品目とかけない品目を琉球政府の判断やるようになれば不徳な輸入業者が業者が政治家に賄賂を贈って物品税を免除もする工作をしただろう。
民主主義国家であるなら物品税をすべての有乳品にかけるのを基本とするのは当然のことである。そのことさえ政治家も裁判官も知らなかったのである。
当時の沖縄は民主主義も自治も知らなかったのである。

沖縄側が求めている自治権拡大は民主主義社会を目指したものではなかったことが分かるのが教公二法阻止闘争である。

教公二法阻止闘争
教公二法とは「地方教育区公務員法」と「教育公務員特例法」のことで、これらの法案は地方公務員の法的立場を明らかにし、身分を保証するものであった。ところが、教職員に対する勤務評定、政治活動の制限、争議行為の禁止などがふくまれていたため、教職員会をはじめ多くの民主団体はこれを復帰運動つぶしだとして法案に反対した。

教員による教公二法阻止闘争の原因は、教員の政治活動の制限と争議行為の禁止が原因であった。
私が高校生の頃は、革新系の立候補者は学校内に入り、職員室の前で教師たちと握手をしていた。日頃は生徒に対して威張っている教師も革新立候補には何度もお辞儀をしていたことが不思議な光景に感じられた。
復帰前の教員は政治活動も争議行為も認められていたのである。

教公二法は本土ではすでに教育公務員特例法として法令化されていた。沖縄の場合は公立学校教職員の身分は琉球政府公務員または教育区公務員であった。琉球政府公務員については、1953年に制定された琉球政府公務員法によって身分保障がなされたいた。
それを当時の保守政党である民主党は日本流の法律に改定しようとしたのである。それが「地方教育区公務員法」「教育公務員特例法」の二法案であった。
しかし、教公二法には、本土の教育公務員特例法のように教職員の政治活動の制限や勤務評定の導入が盛られていたため、沖縄教職員会が反対し、阻止闘争を行ったのである。本土復帰運動の中心的存在であり、本土の法律の元に帰る運動していた沖縄教職員会であったのに政治活動制限が本土並みになるのは反対したのである。


立法院で過半数を握る民主党(自民党系)が教公二法を可決しようとした時、教員は10割年休をとって立法院に結集した。
1967年2月24日、民主党が教公二法を強行採決しようとした時、教職員は警護している警察管をごぼう抜きにして立法院に突入して議会を蹴散らし、実力で教公二法の議決を阻止したのである。
革新側から見れば大衆運動の勝利、民主主義の勝利ということになる。
その時の様子を県公文書に記録されている教公二法闘争に関する米側の対応に関する資料がある。資料の一部をタイムスか新報に掲載した。記事を紹介する。

1967年2月24日、前述のメンバーが民政官室で次のような話し合いを持った。

警察本部長=今朝3時に本部や名護あたりからも動員した警察官は5時30分に到着しました。彼らは朝食も昼食もとらず、休暇はおろか
用を足す時間も与えられていません。立法院ビルの正面と裏に最大で1万3千人のデモ隊がいました。デモ隊は次から次へと新しいグループを動員して波状攻撃で警官隊に襲いか.かりました。警官隊は今朝5時30分から食事もとらずに立法院ビルを警護しています。そしてついに11時10分には、空腹と疲れからデモ隊に圧倒されてしまいました。
民政官=警官隊が武力を行使しないのはどうしてですか。
警察局長=もし警官隊が武力に訴えれば、デモ隊も同じことをします。多勢に無勢で、われわれにはむしろ不利になるでしょう。
民政官=そうなれば、逮捕のために持ち場を離れなくてはならなくなり、逆に警備を弱体化させます。

 警官の警護は突破され、教公二法は成立されなかつたのである。


1967年3月2日付国務省情報調査局発国務長官宛メモ
「沖縄における政治的対立

 高等弁務官は対立は沖縄人同士のものであるという理由で、民主党が支配している琉球政府からの米軍の直接介入の要請を断っていた。そして米側の治安部隊に対しては、法と秩序が完全に崩壊し、米軍基地の機能を脅かさない限り介入しないように命令していた。

1967年3月3日
アンガー高等弁務官と民主党代表
団との会談録

星克議員=私達は法案を通すために警察の力を借りなければなりませんでした。しかし、頼りにしていた警察は、先週、惨めなほどに崩れてしまいました。これは深刻な問題です。
松岡政保主席=現状を分析すると民主党政権はぐらついています。立法院の状況も同じです。例をあげると、琉球政府の教育局は教育行政に関してもはや指導力はありません。教育に関して教職員会です。
高等弁務官=どんなことがあってもこれら二法案を可決するというあなた方が立てた目標に賛同します。民主党のためでなく、沖縄における民主主義の存続がかかっています。これは根本的な問題です。民主主義や多数決のルールに従うのか、それとも暴徒のルールに従うかです。教師の政治活動や子供への影響の問題も需要なことですが、より深刻なのは、果たしてこの島で民主主義が生き残れるかということです。
  「USCAR文書」
 しかし、アンガー高等弁務官の願いは虚しく、二法案は与野党の協議の末に11月30日に正式に廃案になる。
 教員の集団が警察を蹴散らし立法院議会を破壊したのである。琉球の議会制民主主義が「暴徒のルール」に敗北したのである。
 その後から現在まで教職員・公務員の沖縄政治への影響はずっと続くのである。


サンマ裁判から分かることは、琉球の政治家や裁判官に自治能力がないことである。自治能力があれば物品税は積極的に導入していただろう。しかし、沖縄の政治家は物品税は米民政府が強要したから仕方なく従っているというものであった。
 革新政治家は米民政府による統治に反感を持っていた。だから、米民政府の布令の内容には関係なく、布令を出すことを植民地支配だと決めつけていたのである。

 教公二法阻止闘争で分かることは革新政党や教員・公務員が教員の政治活動を認めていたことである。
 崩壊したソ連は一部の共産党と官僚公務員が支配していた社会だった。中国は共産党一党支配国家であるが、習近平主席はじめ中国の政治家は全員公務員あがりである。公務員あがりの政治家と公務員が支配しているのが中国である。
 教公二法阻止闘争でわかることは、中国のような公務員と政治家の一部が政治の実権をにぎる旧ソ連や中国と同じ社会主義国家を革新派が目指していることである。
 革新が米政民政府統治を植民地支配だと決めつけるのは民主主義に基づくものではなく反米主義の社会主義に基づくものであった。

 キャラウェイ弁務官が革新派に嫌われたのは当然であったが、自治能力のない保守の政治家にも嫌われた。その象徴的な出来事が金融業界の大摘発である。
 経済が発展するには企業投資が必要であり、投資をするためには銀行はなくてはならない存在である。だから、米民政府は琉球銀行を創立し、他の金融業の発展にもバックアップした。しかし、戦前の沖縄は金融業は発展しなかった。企業は尚氏のような資産家が設立した。金融業の体験がない沖縄では銀行を設立しても運営法を知らないために健全な運営をしなかった。わゆる情実運営といわれる親近者を優先に融資をしたのである。そして賄賂が横行した。戦後の沖縄の金融界は最初から腐敗体質であった。

 金融界の健全化を狙ったキャラウェイ弁務官は強権を発動して金融業界の刷新を図った。
 まず普通銀行や相互銀行の検査を行い不正を摘発し、各銀行首脳を退陣に追い込んだ。
農林漁業中央金庫や琉球農業協同組合連合会などの協同組織金融機関や保険会社にも検査が行われ、容赦ない摘発を行った。
琉球銀行の株主総会には、キャラウェイ本人が筆頭株主(米国民政府が51%の株を所有)として出席し、その席上で経営陣の責任を追及し、経営陣の総辞職を行わせたのである。
 キャラウェイ弁務官の金融界の徹底した正常化は、しかし、革新系は弁務官の独裁と非難し、古い体質の保守系は利権を奪われたために反発したのである。

 キャラウェイ弁務官が目指したのは金融界の腐敗を徹底して排除し、金融界を健全化することであった。それが本当の経済発展につながるし、沖縄の経済的自立の原動力になるのである。残念ながら、それを沖縄の政治家は理解していなかった。
 沖縄への援助金額を決定するのは米国の上院や下院である。沖縄専門の小委員会は米民政府の要求する援助金額を厳しくチェックした上で決める。沖縄への援助額を増やすには小委員会を納得させなければならないのだ。キャラウェイ弁務官は沖縄の援助を増やすために金融界の浄化をやったと言われている。
 事実、キャラウェイ弁務官の時に米国の援助は増えた。そして、沖縄の経済も目覚ましく発展した。しかし、当時の沖縄では保守の中でもキャラウェイ弁務官の金融の健全化や経済発展を歓迎する者は少数派であった。
 キャラウェイ弁務官の強硬な改革に親米派であった保守派も反発する者が増えていった。親米路線をとっていた与党・沖縄自由民主党では党内抗争が激化していった。西銘順治那覇市長ら党内反主流派は脱党し、民政クラブ→沖縄自由党を結成して沖縄自民党は分裂するに至った。
親米派は政治的な抗争が激化し、親米派からは日本復帰派に路線変更するものも多く現れるなど、親米派は徐々に弱体化していった。一方、日本復帰派は逆に影響力を増大させ、沖縄の日本復帰運動も日増しに強まっていった。

キャラウェイ弁務官が革新にも保守にも嫌われた原因は弁務官の地位を利用した沖縄の自治=独立を目指した強引なアメリカ流民主化にあった。

  つづく
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