コザ騒動・最初に車に日をつけたのは・・




コザで暴動があったと聞いて、私は昼ごろにコザ市に行った。事件のあったゴヤ十字路から遠く離れている島袋三叉路から交通止めになっていたので、歩いてゴヤ十字路に向かった。催涙弾の影響が残っていて目や喉がひりひりした。広範囲で車が焼かれていて、映画のシーンのようであった。
仲ノ町ではスペイン系のアメリカ人が、焼かれた車に五ドルの値札をつけて立っていた。私が近寄ると、「車の始末にお金がかかるよ」と苦笑していたのを思い出す。

この記事で私が注目するのは車を焼かれた米兵の怒りを静めるために、米軍が車両の保障方針を打ち出したことと、比嘉氏が「琉球警察は米軍の傀儡という人もいたが、違う。軍ドップの圧力はなく最後まで独自に判断していた。」という二点だ。

圧倒的な軍事力を誇るアメリカ軍が沖縄を武力で支配するのは赤子の手をひねるより簡単だった。しかし、アメリカ軍が武力で沖縄を支配することはなかった。コザ騒動でもアメリカ軍が実力行使して、騒動に加わった沖縄の人間を検挙して、彼らに重罪を下そうと思えばできた。しかし、アメリカは実力行使はしなかった。

アメリカ軍は暴動を起こしかねない米兵には損害を補償し、事件を起こした沖縄の人間の裁きは沖縄の警察・裁判に任せた。
つまり、犯罪を犯したアメリカ兵はアメリカ軍が裁き、犯罪を犯した沖縄の人間は沖縄の裁判が裁くというルールをアメリカはつくり、それをアメリカは守ったのだ。アメリカの女性を婦女暴行した沖縄の人間も沖縄の裁判で裁くシステムになっていた。

アメリカは民主主義国家であり、沖縄を軍事支配する気はなく、沖縄の政治沖縄の人間に任せるという方針があり、沖縄を三権分立の民主主義社会にしようとしていたと言える。戦前に比べて自由な社会になったのは確かだった。


「今も昔も基地は容認派。ただ、沖縄人をなめるなという気持ちは変わらない」という気持ちを理解できる知識人や政治家はいるだろうか。私の友人にもそんな人間はいた。

「おれたちを押さえつける教師や警察官、周囲への不満」が車両に火をつけたのだ。彼は「その怒りは米軍にもあった」という。しかし、彼は米兵と酒を飲み、大麻をくすねたりもした。彼は米兵と親しかったし米兵を嫌ったり恨んだりはしていなかった。ただ、アメリカ人になめられることは許せなかった。

コザ騒動に参加した人間て少年の心理に近い人間は多かっただろう。つまり、アメリカに対してだけの怒りや不満ではなく、学校は学力主義、親は高圧的、大人は子供を押さえつけるという閉鎖的な沖縄社会に対する積もりに積もったうっくつを発散させるために車をひっくり返し火をつけた。

アメリカ人に危害を加えなかったこと、夜が明けたら騒動は自然に収まったことから、コザ騒動は暴動とは無縁な、花火に似た一夜のストレス解消の大騒動だったといえる。

コザ騒動の原因をアメリカだけの性にするのは疑問である。

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