Blog~続・トイレの雑記帳

鉄道画像メインの「ゆる鉄写真ブログ」のつもりでしたが、
政治社会の事共について記したくなり、現在に至ります。

智勇~山本五十六さんを偲ぶ

2005-12-07 23:57:00 | インポート
先週と今夜のTV番組にて、大東亜戦争こと太平洋戦争の戦端となった米合衆国、ハワイ真珠湾攻撃作戦を考案、総指揮された旧日本海軍大将、山本五十六さんの軌跡を取上げていました。
山本さんは1884=明治17年新潟県のご出身。
私の憧れの地であり、年に何度か訪れる磐越の地よりもそう遠くなく、何やらふと因縁の様なものも感じている所です。
又、お立場こそ違え、陸軍大将及び当時の内閣総理大臣としてこの戦争に関わり、戦後の極東国際軍事裁判にて戦争責任を問われ、極刑に至った東條英機さんもほぼ同年代だったと思います。
山本さんの武勇は遠く20世紀初め、明治末期の日露戦争に遡ります。
旧海軍連合艦隊に若手士官として乗り組み、昇進を重ねながら昭和の初めには合衆国を視察、この時のご見聞とご経験より、我国は合衆国と戦火を交えるべきでないとのご見解を持つに至ります。
その後日米関係は悪化、開戦の危機が迫ると同氏は戦争回避の努力の一方で、開戦を想定した準備も怠りませんでした。
当時は考えられなかった航空兵力による作戦など、斬新な戦法を考案、当時は海軍上層部の理解が得られなかった様ですが、同氏の粘り強い努力と説得により、この戦法が採用され、空爆のはしりとも言える戦闘スタイルは、真珠湾作戦を成功へと導く事となります。
ただ「作戦遂行時は必ず対米事前通告をする事」は守られず、開戦後かなり経ってから行われる不手際があり、これが同氏の「米国民の戦意をくじく」事に繋がらなかったのは遺憾な事でした。次戦以降我国は劣勢となり、遂に一度も挽回叶う事なく、多大な犠牲だけを生じながら1945=昭和20年の敗戦を迎える事となります。
山本さんの偉大な所は、とに角敵の分析力に優れ、対処能力が際立って高かった事でしょう。又、開戦の危機が迫っても、最後まで外交による戦争回避を諦めなかった点にも深い感銘を受けました。
終戦の日を見る事なく南太平洋にて戦没なされてしまったのが残念かつ遺憾な所ですが、山本さんこそは理想の上官の1人であるとの想いもありますね。
恐れながら同氏のお言葉「して見せて、言って聞かせてさせてみて、誉めてやらねば人は動かじ」は私も何とか座右の銘にできればと思っている所です。*(日本)*
コメント
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