会津若松市長が長州、萩市を訪問

 産経新聞が「風評被害の会津若松市長が「長州」訪問へ」と云う記事を配信している。戊辰戦争から明治初年にかけての会津の歴史をご存じない方にとっては「だからどうしたの?」と思われる、どうでも良さそうな記事なのであるが、前出のタイトルの前に「戊辰の怨恨、震災機に氷解?!」の文言が付いているとなると、何か裏があるのかな?と云う事になるだろう。そう、裏が大ありの会津と萩・長州なのである。

 

 書き出すと長くなるので極々かい摘んで云うとこういう事である。幕末、錦の御旗を授けられ京都の天皇を守る役を仰せつかった奥州会津藩。のはずがどこでどう間違ったのか朝敵・逆賊の汚名を着せられ、会津城下での戦では長州藩に徹底的に痛めつけられる(白虎隊の悲劇が有名)。後年、斗南藩としてお家再興が許されたのは下北半島、現在のむつ市。雪深い会津に暮らした人々でさえも下北半島の厳しい自然には勝てずに多くの人が亡くなる。廃藩置県後多くの人が会津に戻るが、逆賊の汚名を着せられ痛めつけられた長州に対する恨みは150年を経た今も残っている。会津若松を訪れた萩市長が、和解の握手をと手を差し出したが会津若松市長がこれを拒否した話はつとに有名。

 

菅家会津若松市長が萩市を訪れたのは3.11震災後、萩市が「東北には友好都市、姉妹都市はない。歴史的なつながりがある会津をお見舞いしたい」と、これまでに義援金2350万円、飲料、食品、下着、学用品など救援物資が14トントラック1台分贈られたことに対するお礼のため。会津若松は3.11震災の直接的な被害はほとんどなかったが風評被害により主要産業である観光や農業が大きなダメージを受けている他、福島第1原発が立地する福島県大熊町が役場機能を移し、同町の住民3300人をはじめ約4500人が避難している。

 

さて、産経新聞が掲げたタイトル「戊辰の怨恨、震災機に氷解?!」はと云えば、菅家市長は「これだけの支援をいただき、お礼にいかない方がおかしい」としながらも「戊辰戦争の和解とか、仲直りとか、そういう話ではない」と、太い釘を刺している。

 

 

 例によって記事本文とは何の関係もない今日の一枚は、竹の根っこから生える葉っぱ。切通しの崖上に竹林。竹林の地表1m程を残して切通しの崖が崩れて地表がこれまた1m程オーバーハングする結果に。行場を失った根っこはと云えば、最初は律儀に真下の伸びていたのだが、何を思ったのか途中からUターンし上に伸び始めそれと同時に葉を出し始めた。勿論地中で葉を出すことはないはずだが、根であったはずのものも太陽の光に当たると出自を忘れて葉出す、そう云う習性のようである。

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恩田の森、更新

 昨日、恩田の森で撮影しました写真をこちらに掲載いたしましたので、ぜひご覧ください。
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