森の石仏

 これまでに幾度か森の墓地の墓石や地蔵をご覧頂いたとこがある。墓石は今の私たちが見慣れたものより相当小さなもの(人が一人で担ぐことの出来る大きさ)で、多くが仏様の姿が掘り込まれていたのをご記憶の方もおいでかも知れない。村の、あるいは近在の石工が掘った仏様は素朴なものが多いが、今日ご覧頂くのはなかなか精巧なものである。

 かつらの森の南端の頂には三体の石仏がある。由来はわからないが、森の裾からの急斜面には手作りではあるが階段もうけられており、なにか由緒ありげである。この辺りのことは折があればお年寄りにでもお聞きしてみたいところである。


 三体並んだ石仏は向かって右が地蔵菩薩、中央と左側のものが六手観音のようである。そして左右の二体が素朴なものなのに対して、中央の地蔵菩薩と思われるものだけがやけに精巧な造りである(郷秋<Gauche>はこの手のものにはまったく不案内なので、違っているようなら是非ご指摘いただきたい)。


 蓮の花の上にのった仏様はよくあるが、中央の六手観音は何故か猫の上にのっており、更にその下には三匹の猿がいる。三匹の猿は日光東照宮神厩舎に掲げられた左甚五郎作と伝えられている「三猿像」そっくりである。とすると、猫は同じく左甚五郎作と云われる「眠り猫」なのか。東照宮参りをした石工が、見てきたものを恩田の村人に伝えるためのこのような石仏を造ったのかもしれない。

 この六手観音像の側面には万延庚申(かのえさる、こうしん、と読む)十二月吉日と彫り込まれている。万延元年(1860年、「元年」とは書かれていないが翌年2月19日には「文久)に改元されているから元年以外ありえない)と云えば咸臨丸が太平洋横断航海し、桜田門外の変で、大老井伊直弼が暗殺された年である(3月18安政から万延に改元されているから、上記2件は正しくは安政6年の出来事)。それ以来150年、この六手観音は恩田の森の移ろいをずっと見つめてきたと云うことになるのだなあ。
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