『つつましい英雄』 マリオ・バルガス=リョサ ☆☆☆☆☆
リョサの新刊を感嘆のため息とともに読了した。素晴らしい。エンタメとして純文学として、ほとんど非の打ち所がない出来だ。純文学にしては軽すぎるという人がいるかも知れないが、そんなことはない。純文学は重くても軽くてもいいのである。純文学にしては面白過ぎるという人もいるだろうが、いいじゃないか。私は全然気にならないぞ。
とにかく、リョサのストーリーテラーとしての技巧が神々しいまでに見事に発揮されている。均整の取れたプロットの端正さ、二つのプロットを交互に行き来する明快かつシンメトリックな構成、簡潔にして的確な文章表現力。交錯する二つのプロットがいちいち「これからどうなる?」ともっとも引きが強くなるところで場面が変わるという、まるでTVのサスペンスドラマ並みの意図的なクリフハンガー演出の徹底により、ページターナーぶりはもはや鉄板。読者をして、次から次へと憑かれたようにページをめくらせずにはおかない。もっとも原初的な読書の興奮ここにあり。いやまったく、言っちゃ悪いがキングの『悪霊の島』など足元にも及ばない。
二つのプロットというのはまず、小さな会社を経営するフェリシトへの匿名の手紙による恐喝。ある朝突然舞い込んだ恐喝の手紙によって、穏やかだったフェリシトの生活は一変する。警察に届けても鼻であしらわれ、知り合いに相談するとおとなしく金を出した方がいいと言われる。が、誰にも踏みつけにされるなという父の遺言を守って生きているフェリシトは、恐喝に屈することを拒む。第二の脅迫状を受け取っても、事務所を放火されても、彼の決心は揺るがない。しかし、ついに彼の愛人が誘拐されるに及んで…。
タイトルの「つつましい英雄」とは、リョサの「私利私欲に満ちたエゴイスティックなこの社会においても、善意を旗印に掲げる無名のつつしみ深い英雄たちが存在しているのだ。…(中略)…社会を向上させているのは歴史で学ぶ英雄ではなくて、つつしみを知る英雄である彼らなのである。彼らこそが国の真の道徳を築き上げる隠れた力なのだ」というステートメントから来ているが、無論、普段は人目に立たないがいざ理不尽が降りかかった時には断固たる信念をもって行動するフェリシトこそ、そのつつましい英雄という観念の体現者である。
もう一つのプロットはドン・リゴベルトが巻き込まれる上司イスマエルと家政婦アデライダの結婚騒動である。ドン・リゴベルトはリョサの『継母礼賛』『ドン・リゴベルトの手帖』の登場人物で、本書では再々登場となる。こういう他の作品とのリンクという、まるで伊坂幸太郎のような愉しみ方ができるのも本書の特徴だ。ちなみに『緑の家』や『アンデスのリトゥーマ』などでおなじみのリトゥーマも登場し、フェリシトの恐喝事件の捜査を担当する。さて、ドン・リゴベルトの上司にして老いた億万長者のイスマエルは不良息子2人に愛想を尽かして家政婦アデライダと突然結婚する。遺産相続ができなくなることを怖れた不良息子どもは、訴訟を起こして結婚を無効にすべく、結婚の証人であるドン・リゴベルトにプレッシャーをかけてくる…。
エキセントリックで享楽主義的な億万長者イスマエルのキャラが面白い。ドン・リゴベルトは騒動に巻き込まれて大迷惑だが、イスマエルとの友情から誠実に対応する。そしてこちらのプロットのもう一つのアクセントは、ドン・リゴベルトの息子があちこちで遭遇する不可解な人物エディルベルト・トーレスだろう。まるでメフィストテレスの如きこの人物は息子の空想上の人物に違いないと思われるのだが、さて、果たしてどうなのだろうか。
二つのプロットはきれいに分離したままパラレルに進むが、終盤で突然融合する。その唐突な融合はまるで神の手が現実に介入したかのようで、私など異様な感動で鳥肌が立った。言語実験や現代文学の手法に通じたリョサがこれをやることで、なんともいえないメタフィクショナルな感動が生まれるのである。メタフィクションといえば本書ではそれほど冒険的な手法の実験はなされていないが、もはやリョサが完全に自家薬籠中のものとしている「異なる場面の異なる会話やアクションを改行だけでミックスする手法」があちこちで使われ、きわめて洗練された効果を上げている。現在進行中の会話と、会話をしながら話者が行う回想と、その回想中で更に別の人物が語る出来事という三つの次元が融合されていたりもするが、読者の脳はその三つの時空を楽々と、瞬時に移動する快感を味わえるのである。
もともとマルケスやフエンテスと違って超自然的な事象はほとんど扱わないリョサだが、本書ではフェリシト・プロットにおいては予言者の老女、ドン・リゴベルト・プロットにおいては息子の前に出現するエディルベルト・トーレスが、超自然的な存在感で異彩を放っている。これらはプロットに深く関与するでもなく作品をマジックリアリズム化するほどでもないので、私はリョサの遊戯と捉えている。優れた小説にはこういうエレガントで心地よい隙間があるものだ。
ところでドン・リゴベルトの息子が見るエディルベルト・トーレスの話だけは結論や謎解きがなく、オープンエンドになっている。あらゆることにキチンキチンとけりがつくエンタメ的な本書の収束の中で、これだけが宙に浮き、読者の胸の中に不思議な浮遊感を残す。これもまた、リョサの熟練の技だ。
ちなみに、フェリシト・プロットにリトゥーマの上司として登場する警察署長は最初フェリシトを慇懃無礼に扱う嫌な役人として登場し、やがてリトゥーマとともに捜査を手がけるようになるが、意外な真相を嗅ぎだすその嗅覚、関係者を訊問する際のカメレオン的態度の変貌など、なかなか面白いキャラだった。善人なのか悪人なのかすらよく分からず、一筋縄ではいかない人物である。またリョサの別の小説で再会できることを期待したい。
リョサの新刊を感嘆のため息とともに読了した。素晴らしい。エンタメとして純文学として、ほとんど非の打ち所がない出来だ。純文学にしては軽すぎるという人がいるかも知れないが、そんなことはない。純文学は重くても軽くてもいいのである。純文学にしては面白過ぎるという人もいるだろうが、いいじゃないか。私は全然気にならないぞ。
とにかく、リョサのストーリーテラーとしての技巧が神々しいまでに見事に発揮されている。均整の取れたプロットの端正さ、二つのプロットを交互に行き来する明快かつシンメトリックな構成、簡潔にして的確な文章表現力。交錯する二つのプロットがいちいち「これからどうなる?」ともっとも引きが強くなるところで場面が変わるという、まるでTVのサスペンスドラマ並みの意図的なクリフハンガー演出の徹底により、ページターナーぶりはもはや鉄板。読者をして、次から次へと憑かれたようにページをめくらせずにはおかない。もっとも原初的な読書の興奮ここにあり。いやまったく、言っちゃ悪いがキングの『悪霊の島』など足元にも及ばない。
二つのプロットというのはまず、小さな会社を経営するフェリシトへの匿名の手紙による恐喝。ある朝突然舞い込んだ恐喝の手紙によって、穏やかだったフェリシトの生活は一変する。警察に届けても鼻であしらわれ、知り合いに相談するとおとなしく金を出した方がいいと言われる。が、誰にも踏みつけにされるなという父の遺言を守って生きているフェリシトは、恐喝に屈することを拒む。第二の脅迫状を受け取っても、事務所を放火されても、彼の決心は揺るがない。しかし、ついに彼の愛人が誘拐されるに及んで…。
タイトルの「つつましい英雄」とは、リョサの「私利私欲に満ちたエゴイスティックなこの社会においても、善意を旗印に掲げる無名のつつしみ深い英雄たちが存在しているのだ。…(中略)…社会を向上させているのは歴史で学ぶ英雄ではなくて、つつしみを知る英雄である彼らなのである。彼らこそが国の真の道徳を築き上げる隠れた力なのだ」というステートメントから来ているが、無論、普段は人目に立たないがいざ理不尽が降りかかった時には断固たる信念をもって行動するフェリシトこそ、そのつつましい英雄という観念の体現者である。
もう一つのプロットはドン・リゴベルトが巻き込まれる上司イスマエルと家政婦アデライダの結婚騒動である。ドン・リゴベルトはリョサの『継母礼賛』『ドン・リゴベルトの手帖』の登場人物で、本書では再々登場となる。こういう他の作品とのリンクという、まるで伊坂幸太郎のような愉しみ方ができるのも本書の特徴だ。ちなみに『緑の家』や『アンデスのリトゥーマ』などでおなじみのリトゥーマも登場し、フェリシトの恐喝事件の捜査を担当する。さて、ドン・リゴベルトの上司にして老いた億万長者のイスマエルは不良息子2人に愛想を尽かして家政婦アデライダと突然結婚する。遺産相続ができなくなることを怖れた不良息子どもは、訴訟を起こして結婚を無効にすべく、結婚の証人であるドン・リゴベルトにプレッシャーをかけてくる…。
エキセントリックで享楽主義的な億万長者イスマエルのキャラが面白い。ドン・リゴベルトは騒動に巻き込まれて大迷惑だが、イスマエルとの友情から誠実に対応する。そしてこちらのプロットのもう一つのアクセントは、ドン・リゴベルトの息子があちこちで遭遇する不可解な人物エディルベルト・トーレスだろう。まるでメフィストテレスの如きこの人物は息子の空想上の人物に違いないと思われるのだが、さて、果たしてどうなのだろうか。
二つのプロットはきれいに分離したままパラレルに進むが、終盤で突然融合する。その唐突な融合はまるで神の手が現実に介入したかのようで、私など異様な感動で鳥肌が立った。言語実験や現代文学の手法に通じたリョサがこれをやることで、なんともいえないメタフィクショナルな感動が生まれるのである。メタフィクションといえば本書ではそれほど冒険的な手法の実験はなされていないが、もはやリョサが完全に自家薬籠中のものとしている「異なる場面の異なる会話やアクションを改行だけでミックスする手法」があちこちで使われ、きわめて洗練された効果を上げている。現在進行中の会話と、会話をしながら話者が行う回想と、その回想中で更に別の人物が語る出来事という三つの次元が融合されていたりもするが、読者の脳はその三つの時空を楽々と、瞬時に移動する快感を味わえるのである。
もともとマルケスやフエンテスと違って超自然的な事象はほとんど扱わないリョサだが、本書ではフェリシト・プロットにおいては予言者の老女、ドン・リゴベルト・プロットにおいては息子の前に出現するエディルベルト・トーレスが、超自然的な存在感で異彩を放っている。これらはプロットに深く関与するでもなく作品をマジックリアリズム化するほどでもないので、私はリョサの遊戯と捉えている。優れた小説にはこういうエレガントで心地よい隙間があるものだ。
ところでドン・リゴベルトの息子が見るエディルベルト・トーレスの話だけは結論や謎解きがなく、オープンエンドになっている。あらゆることにキチンキチンとけりがつくエンタメ的な本書の収束の中で、これだけが宙に浮き、読者の胸の中に不思議な浮遊感を残す。これもまた、リョサの熟練の技だ。
ちなみに、フェリシト・プロットにリトゥーマの上司として登場する警察署長は最初フェリシトを慇懃無礼に扱う嫌な役人として登場し、やがてリトゥーマとともに捜査を手がけるようになるが、意外な真相を嗅ぎだすその嗅覚、関係者を訊問する際のカメレオン的態度の変貌など、なかなか面白いキャラだった。善人なのか悪人なのかすらよく分からず、一筋縄ではいかない人物である。またリョサの別の小説で再会できることを期待したい。
19世紀の小説のようにエンタメ性と芸術性を同時に描ける稀有な作家さんだと思います。