『モレルの発明』 アドルフォ・ビオイ=カサーレス ☆☆☆★
再読。大昔に一度読んだがもう本を持っておらず、また買った。そこまでして読みたかったのかどうか自分でも良く分からない。
これはアルゼンチンの作家ビオイ=カサーレスの代表作と見なされている小説であり、あのボルヘスが序文の中で「完璧な小説」と賞賛している。実のところそこまでの傑作だとは前読んだ時も今回も思えなかったのだが、まあボルヘス好みの、相当ユニークな小説であることは確かだ。タイトルからも分かるようにSF的な仕掛けにもとづいた、非常に人工的な小説である。リアリズムとか生活のにおいとか人生いかにいくべきかとかはかけらもない。物語は終始、絶海の孤島という限定された舞台で展開する。この凝縮された小宇宙、そして強い象徴性はもちろんボルヘス、そしてポーにも通じるものを感じる。
一応ミステリ的な構成になっているのでネタバレしないように話を紹介すると、官憲に追われているらしい「私」は逃亡のあげく、一人で「この島」にやってくる。島には無人の博物館、礼拝堂、プールなどがある。ある日突然島に男女とりまぜた蘭入者たちが現れ、プールで泳いだり海岸で遊んだりし始める。「私」は最初隠れて彼らを観察しているが、やがて女達の一人フォスティーヌへの恋心がつのり、彼女の注意を引きたいと考える。ところがこの時から奇妙な現象が起き始める…。
島と建築物、そこで享楽的にたわむれる男女の集団、それを隠れて窃視する男、という奇妙な道具立てはなかなか面白い。太陽と月が二つずつ出たりする(「私」はそれを気象現象と説明する)。シュルレアリスム絵画みたいだ。加えて、この小説には「信頼できない語り手」という仕掛けが施されている。つまり「私」の書く内容に矛盾があったり、刊行者注という形で間違いが指摘されたりするのである。「…厳密さをこの報告のモットーとしようと思う」という記述の直後に注がついて「これは疑わしい。この人物は……」などと書かれていて結構笑える。まあともあれ、「私」の書くことは額面通りに受け取れないわけで、ボルヘスによればこれは「ごく少数の読者しか隠された真相を察知できない」小説であるらしい。
これがどうも良く分からない。訳者解説で清水徹氏がいくつかヒントを書いてくれているので私もある程度察しはついているつもりだが、大して面白い真相とは思えないのである。この時代では斬新なアイデアだったのか。それともやっぱり私が分かっていないだけなのだろうか。
このビオイ=カサーレスは大体ふざけているのかマジメなのか分からない発想と文体が特徴で、そういうところが私はなかなか好きなのだが、その癖のある文体は本書でも存分に味わえる。多少は訳のせいもあるのかも知れないが、かなりヘンである。なんというか無造作で、非連続的な文体なのである。たとえば書き出しの文章。「今日、この島に信じられぬことが起きたのである。早くも夏になっていた。プールのそばにベッドを置いて、遅くまで水浴びをした。眠ることなど、とてもできない」これってなんかおかしくないか? (くどいようだがいい意味である)
独特の雰囲気はあるが、つかみどころのない小説である。私は嫌いじゃないが、面白い小説と呼べるかどうか確信はない。ボルヘス的な発想を引き伸ばして長編にしたような作品だが、私としてはボルヘスの短篇の方が濃密さが感じられて好きだ。とりあえずそういう小説への嗜好を持っている人以外に、特にお薦めはしない。
再読。大昔に一度読んだがもう本を持っておらず、また買った。そこまでして読みたかったのかどうか自分でも良く分からない。
これはアルゼンチンの作家ビオイ=カサーレスの代表作と見なされている小説であり、あのボルヘスが序文の中で「完璧な小説」と賞賛している。実のところそこまでの傑作だとは前読んだ時も今回も思えなかったのだが、まあボルヘス好みの、相当ユニークな小説であることは確かだ。タイトルからも分かるようにSF的な仕掛けにもとづいた、非常に人工的な小説である。リアリズムとか生活のにおいとか人生いかにいくべきかとかはかけらもない。物語は終始、絶海の孤島という限定された舞台で展開する。この凝縮された小宇宙、そして強い象徴性はもちろんボルヘス、そしてポーにも通じるものを感じる。
一応ミステリ的な構成になっているのでネタバレしないように話を紹介すると、官憲に追われているらしい「私」は逃亡のあげく、一人で「この島」にやってくる。島には無人の博物館、礼拝堂、プールなどがある。ある日突然島に男女とりまぜた蘭入者たちが現れ、プールで泳いだり海岸で遊んだりし始める。「私」は最初隠れて彼らを観察しているが、やがて女達の一人フォスティーヌへの恋心がつのり、彼女の注意を引きたいと考える。ところがこの時から奇妙な現象が起き始める…。
島と建築物、そこで享楽的にたわむれる男女の集団、それを隠れて窃視する男、という奇妙な道具立てはなかなか面白い。太陽と月が二つずつ出たりする(「私」はそれを気象現象と説明する)。シュルレアリスム絵画みたいだ。加えて、この小説には「信頼できない語り手」という仕掛けが施されている。つまり「私」の書く内容に矛盾があったり、刊行者注という形で間違いが指摘されたりするのである。「…厳密さをこの報告のモットーとしようと思う」という記述の直後に注がついて「これは疑わしい。この人物は……」などと書かれていて結構笑える。まあともあれ、「私」の書くことは額面通りに受け取れないわけで、ボルヘスによればこれは「ごく少数の読者しか隠された真相を察知できない」小説であるらしい。
これがどうも良く分からない。訳者解説で清水徹氏がいくつかヒントを書いてくれているので私もある程度察しはついているつもりだが、大して面白い真相とは思えないのである。この時代では斬新なアイデアだったのか。それともやっぱり私が分かっていないだけなのだろうか。
このビオイ=カサーレスは大体ふざけているのかマジメなのか分からない発想と文体が特徴で、そういうところが私はなかなか好きなのだが、その癖のある文体は本書でも存分に味わえる。多少は訳のせいもあるのかも知れないが、かなりヘンである。なんというか無造作で、非連続的な文体なのである。たとえば書き出しの文章。「今日、この島に信じられぬことが起きたのである。早くも夏になっていた。プールのそばにベッドを置いて、遅くまで水浴びをした。眠ることなど、とてもできない」これってなんかおかしくないか? (くどいようだがいい意味である)
独特の雰囲気はあるが、つかみどころのない小説である。私は嫌いじゃないが、面白い小説と呼べるかどうか確信はない。ボルヘス的な発想を引き伸ばして長編にしたような作品だが、私としてはボルヘスの短篇の方が濃密さが感じられて好きだ。とりあえずそういう小説への嗜好を持っている人以外に、特にお薦めはしない。
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