アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

砂時計

2015-07-18 21:58:23 | 
『砂時計』 ダニロ・キシュ   ☆☆☆☆☆

 ユーゴスラヴィアの作家、ダニロ・キシュの『砂時計』を再読。私が『死者の百科事典』に続いて二冊目に読んだダニロ・キシュの小説であり、他の作品は未読である。これは作者自身が自伝的三部作と呼ぶ作品のひとつで、強制収容所に送られたユダヤ人の父親が残した手紙をベースに、数日間の物語を構築したものだ。

 主人公の「E.S.」がつまり作者の父親である。もともと本書のインスピレーションの元となった手紙は本書の最後にそっくりそのまま掲載されていて、そこまでの物語がいわばその注釈なのだが、物語はバラバラに断片化され、シャッフルされ、いくつかの異なるスタイルのテキストに変換され、異化され、加えて読者の解釈をはぐらかすかのようなさまざまな煙幕がはられているために、筋を追うことが非常に困難となっている。とてもすんなりと頭には入ってこない。

 おおまかな仕掛けを説明すると、まず物語のテキストは「旅の絵」「ある狂人の覚書」「予審」という三種類の断章に分類され、それぞれの章は「旅の絵(I)」「旅の絵(II)」という風に、循環して出てくる。「ある狂人の覚書」「予審」も同じである。またこの三種類の章では叙述の方法がまったく異なっていて、「旅の絵」は場面場面の純然たる視覚描写(文章はすべて現在形、かつ心理描写や背景の説明等はいっさいなし、人物を名指す時も名前ではなく「男」「女」など)、「ある狂人の覚書」は物語に直接関係しないエッセー風断章の寄せ集めで、「予審」は「E.S.」の行動を質疑応答形式(というか訊問形式)で詳細に追っていくもの、となっている。

 要するに、これらが渾然一体となることで読者の頭の中にぼんやりと物語の像を形作っていくのだが、個々の断片がまったく曖昧模糊としているために一筋縄ではいかない。「旅の絵」の章は視覚描写のみで一切の説明が排除されているため、それだけ読んでも何が起きているのかさっぱり分からない。他の章を読んで「ははあ、あの場面はこの行動を描写したものだったのだな」となんとなく分かってくる程度である。パズルのピースのようなものだ。「ある狂人の覚書」の題材はマリー・アントワネットから料理のレシピまでさまざまで、それらが妄想や白昼夢のようにとりとめもなく綴られるが、場合によってはユーモラスで笑える内容になっている。たとえばニュートンは実はりんごの木の陰で大便をしている時に引力を発見したが、体裁が悪いのでりんごということにした(りんごはエデンの園の昔からの神話的果実であり知恵の実である、発見のきっかけとしてふさわしい!)、などというアホな話が出てくる。そういう意味では、本書は決してしかつめらしい、深刻なだけの小説ではない。

 「予審」の章は訊問者が質問しそれに「E.S.」が答える形で記述される。この章が筋を追うという観点からは一番分かりやすいが、ただしこの訊問者はやたらと細部に固執する傾向があり、たとえば話にソファが出てきたらそのソファの外見について質問し、次にソファの持ち主について質問し、次にソファがそこに置かれた経緯と背景について質問する、といった具合である。従ってこの異常な細部へのこだわりも時々滑稽さを醸し出すことになり、本題から逸れる、同じことの繰り返し、異常なまでの羅列、などのさまざまなギャグを生む。

 ただこの細部への執着、偏執的なまでに正確な描写、名詞の羅列癖、などをひっくるめた独特の饒舌文体はこの「予審」の章にとどまらない本書全体の特徴である。これが時にはオフビートな滑稽感を醸し出し、時にはメランコリックなムードを、あるいは悲劇性や叙情性を醸し出しながら、最終的にはこの小説全体を迷宮化するという効果をもたらしている。

 こういう凝りに凝った仕掛けで語られる物語の核心、つまり「E.S.」の手紙の内容は何かというと、意外なことにファシズムや強制収容所の暴虐ではない。少なくとも、直接的にそれらを告発するものではない。手紙に書かれているのは、自分と自分の家族が親戚たちから受けている非人情な扱い、非道な扱い、そのために自分たちが耐え忍んでいる飢えと寒さと貧困、そして恥辱である。姉に宛てた手紙の中で、彼は自分たちの窮状を訴え、本来受け取れるべきものを受け取れていない、送ってもらえるはずのものが届かない、などの苦情を綴っている。

 とはいっても、強制収容所で消息を絶った父親の物語にナチズムが影を落とさないはずはなく、その残酷と非人間性はそこかしこから読み取れるようになっている。「E.S.」とその家族の窮状ももとを辿ればそこに行き着くし、訊問形式で書かれた「予審」の章や、あちこちで触れられる「E.S.」の知人たちの消息がそれを暗示する。特に、訳者もあとがきで触れている通り、「予審」の章で「E.S.」が知り合いの名前とその消息を数ページにわたって列挙していく部分は圧巻である。そこにあるのは殺人、自殺、病気、怪我、発狂、行方不明など、ありとあらゆる不幸のカタログともいうべきものだ。「E.S.」は淡々とそれらを列挙していく。

 しかし物語の表面からは、そうした政治色、ナチズムへの直接的な批判の色は拭い去られている。それらは意図的に、慎重に、隠蔽されているのである。私はこれこそが、本書を素晴らしい文学作品の高みへと押し上げた最大の原因だと思う。この種の物語はどうしても歴史的事実への告発になってしまい、文学作品にとってもっとも大切な多義性を失ってしまいがちだが、本書ではまったくそのようなことが起きない。この小説はどの部分をとっても告発文やアジテーションに傾くことなく、小説であり続ける。先に書いた通り、本書の一部はユーモラスでさえあるのだ。

 実質はある男の数日間にわたる彷徨の記録を、さまざまな文学的技巧とマニエリスティックな文体を駆使して奥深い迷宮の森に仕立て上げたこの小説は、最後に男が書いた手紙そのものに到達して終わる。このシンプルな出来事をなぜここまで入り組んだ、辿りづらい物語にしなければならなかったかという疑問には、この小説を読むユニークな体験そのものが答えとなるだろう。謎めいた迷宮の中を引きずり回されるような読書体験は、それ自体が文学作品の無限性や永遠性に繋がっていくようだ。小説とはただ情報を伝達するだけでなく、読者に何かを体験させる、体感させることに目的があるのだから。

 最後に、念のために付け加えておくと、本書の物語は確かになかなか辿るのが困難だけれども、これは決して読むのが苦行のように感じられる小説ではない。むしろマニエリスティックなディテールや思わぬユーモアに彩られているため、あまり絵解きをしようなどと思わずただ細部に身を委ねていれば、実に快感に満ちた、心地よい読書体験を与えてくれる書物である(だから難解などと敬遠する必要はない)。読書の愉悦ここにあり。



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