『千と千尋の神隠し』 宮崎駿監督 ☆☆☆☆☆
日本版DVDで再見。何度観ても大傑作。現時点で宮崎駿の最高傑作はどれかと聞かれたら私は本作に一票。ちなみに日本版DVDは色が赤みがかっていると物議をかもしたようだが、私の持っているDVDは問題ない。修正されたのだろうか。
この映画は宮崎駿版『不思議の国のアリス』だ。異界に迷い込む少女というモチーフが同じだし、さまざまな超現実的なイメージやエピソードが羅列される構成も同じ。しかしながらここで繰り広げられるイメージは完全に宮崎駿オリジナルで、『アリス』の二番煎じなどではまったくない。
とにかくこの映画に盛り込まれたイメージの奔放さと美しさ、そしてその絶対量には圧倒される。ほとんど暴力的なほどだ。ヴィジオネールとしての宮崎駿監督の資質をこれほどまでに見事に示した作品は他にない。美しさといっても単純にキレイな絵を見せるのではなく、無意識に食い込み、心のどこかにとりついて離れなくなるような呪縛力を持っている。そういう意味でこの映画は夢に似ている。夢の装置という言葉があるがこの映画はまさに夢の装置だ。そしてそんな強烈なイメージがこれでもかと大量に、息つく暇もなく繰り出される。和風と中華風が入り乱れたような湯屋と食堂街の光景に始まり、夕暮れに出現する異界描写、腐れ神やカオナシや魔女や坊など異形のキャラクター達。見どころだらけだ。
これまで『ナウシカ』や『もののけ姫』でも暴力的なイマジネーションを見せつけてきた宮崎駿だが、それらの作品ではSF的なあるいは神話的な物語の枠がきっちりしていたため、幻想性も物語世界に奉仕するべくコントロールされ、首尾一貫していた。しかしこの『千と千尋の神隠し』ではむしろイメージ先行で、整合性は二の次になっている。たとえば湯屋の外観は中華風、内部はおおむね和風なのに、湯婆婆の居住する最上階だけは完全にヨーロッパ風だ。また湯婆婆はブロンドで服装も西洋風だが、坊の格好は和風(というか金太郎がつけているあれ)、従者らしき「おい、おい」とうめきながら飛び跳ねる首は日本や中国古来の「飛頭蛮」の系統。こういう整合性に対する無頓着さがさらに夢のムードを濃厚にする。
「おい、おい」とうめきながら飛び跳ねる首や、愛らしい声で泣きながら部屋を破壊する巨大な坊には悪夢的な存在感がある。それがまたこの映画の傑作たるゆえんで、決して人畜無害なキレイ事の寄せ集めではないのだ。両親が豚に変わってしまうシーンなどかなりショッキングだし、龍に変身して暴れるハクの凶暴さもある意味衝撃的。だから子供に見せるには怖すぎるという意見もあり、まあそういう場合は見せないようにすればいいと思うが、個人的には子供だって本当に優れた映画を見た方がためになると思う。自分が子供の頃に観て感動したり印象に残ったりした作品は、子供だましな作品よりむしろ大人も楽しめるものの方が多かったし、中にはショッキングなものもあった。
『コナン』や『ラピュタ』のような明朗闊達冒険譚を好む宮崎駿ファンの中には、難解だといって本作を敬遠する人もいるようだ。カオナシの意味が良く分からないとかそういうことらしいが、「夢の装置」たる本作においては意味など分からなくてもいい、というのが私の意見だ。いやむしろ「カオナシは匿名の時だけ傍若無人になる現代人のカリカチュアだ」なんてわけが分かったような薄っぺらい解釈をつけて「なるほどそういうことか」などと腑に落ちてしまうより、わけわからないままに夢的なイメージを味わう方がよっぽど楽しめる。腐れ神のエピソードにしても、川の汚染がどうのというメッセージに還元してしまうより、ドロドロの神様の体内からヘドロとともに大量がガラクタが噴出し、すっきりした神が龍になって天を駆けていく、というイメージの爽快さ、素晴らしさを堪能するべきだと思う。実際、目を見張るようなすばらしいシーンだ。
それからまた、この映画を「湯屋=遊郭であり、要するにこれは風俗で働かされる少女の話なのでけしからん」と批判する人がいるが、私には分からない。もちろん「八百万の神々が疲れを癒す場所」には性的な含みがあるし、そもそも湯屋の壁には「回春」なんて貼り紙もあるのだ。あからさまにせよ暗示的にせよ神話とはエロティックなものであって、神話のモチーフを取り入れたこの映画にその含みがないわけがない。だからこそ本作は豊穣なのである。「風俗なんてハレンチな」などというPTA的価値判断からどんなアートが生まれるというのだろう。そういう態度こそがキッチュだ、と思うがどうか。澁澤龍彦が言うように芸術とは本質的にアモラルなものであり、ミラン・クンデラが言うように「道徳的判断が停止する場所」なのである。いやこれは子供向けだからいかん、という意見があるかも知れないが、だからこの物語にはエロティックなシーンは存在しない。湯屋にどのような含みがあるにせよ、それらは隠蔽され、無意識化されている。それで充分だ。
宮崎駿の幻想力の醍醐味はこの映画の至るところで味わえる。たとえば龍を追って紙の人型が無数に飛来し、それが障子にぶつかって次々と貼りついていくシーン。布団が敷いてある畳の部屋にとぐろを巻く白い龍。千がハクを助けるために湯婆婆の部屋に行くと、「外はバイキンだらけだぞ」とか「遊んでくれないと泣いちゃうぞ」などといって千を脅す坊。宮崎駿の繰り出すイメージはきわめて動的だ。しかもこの映画の中では幻想的なものと日常的なものが平然とミックスされている。そして千がカオナシと電車に乗って海を渡っていくシーンの溢れる詩情を見よ。人々はみな幻のよう。窓から踏み切りを待つ親子連れ、一人でホームに立つスカートを穿いた少女、洗濯ものを干した西洋風の家。ノスタルジーの中から拾い上げられた蜃気楼のような断片たち。まるで幻想絵画のようだ。
宮崎駿の傑作群の中で、本作はそのイマジネーションの美しさをもっとも純粋に堪能できる映画だと思う。
日本版DVDで再見。何度観ても大傑作。現時点で宮崎駿の最高傑作はどれかと聞かれたら私は本作に一票。ちなみに日本版DVDは色が赤みがかっていると物議をかもしたようだが、私の持っているDVDは問題ない。修正されたのだろうか。
この映画は宮崎駿版『不思議の国のアリス』だ。異界に迷い込む少女というモチーフが同じだし、さまざまな超現実的なイメージやエピソードが羅列される構成も同じ。しかしながらここで繰り広げられるイメージは完全に宮崎駿オリジナルで、『アリス』の二番煎じなどではまったくない。
とにかくこの映画に盛り込まれたイメージの奔放さと美しさ、そしてその絶対量には圧倒される。ほとんど暴力的なほどだ。ヴィジオネールとしての宮崎駿監督の資質をこれほどまでに見事に示した作品は他にない。美しさといっても単純にキレイな絵を見せるのではなく、無意識に食い込み、心のどこかにとりついて離れなくなるような呪縛力を持っている。そういう意味でこの映画は夢に似ている。夢の装置という言葉があるがこの映画はまさに夢の装置だ。そしてそんな強烈なイメージがこれでもかと大量に、息つく暇もなく繰り出される。和風と中華風が入り乱れたような湯屋と食堂街の光景に始まり、夕暮れに出現する異界描写、腐れ神やカオナシや魔女や坊など異形のキャラクター達。見どころだらけだ。
これまで『ナウシカ』や『もののけ姫』でも暴力的なイマジネーションを見せつけてきた宮崎駿だが、それらの作品ではSF的なあるいは神話的な物語の枠がきっちりしていたため、幻想性も物語世界に奉仕するべくコントロールされ、首尾一貫していた。しかしこの『千と千尋の神隠し』ではむしろイメージ先行で、整合性は二の次になっている。たとえば湯屋の外観は中華風、内部はおおむね和風なのに、湯婆婆の居住する最上階だけは完全にヨーロッパ風だ。また湯婆婆はブロンドで服装も西洋風だが、坊の格好は和風(というか金太郎がつけているあれ)、従者らしき「おい、おい」とうめきながら飛び跳ねる首は日本や中国古来の「飛頭蛮」の系統。こういう整合性に対する無頓着さがさらに夢のムードを濃厚にする。
「おい、おい」とうめきながら飛び跳ねる首や、愛らしい声で泣きながら部屋を破壊する巨大な坊には悪夢的な存在感がある。それがまたこの映画の傑作たるゆえんで、決して人畜無害なキレイ事の寄せ集めではないのだ。両親が豚に変わってしまうシーンなどかなりショッキングだし、龍に変身して暴れるハクの凶暴さもある意味衝撃的。だから子供に見せるには怖すぎるという意見もあり、まあそういう場合は見せないようにすればいいと思うが、個人的には子供だって本当に優れた映画を見た方がためになると思う。自分が子供の頃に観て感動したり印象に残ったりした作品は、子供だましな作品よりむしろ大人も楽しめるものの方が多かったし、中にはショッキングなものもあった。
『コナン』や『ラピュタ』のような明朗闊達冒険譚を好む宮崎駿ファンの中には、難解だといって本作を敬遠する人もいるようだ。カオナシの意味が良く分からないとかそういうことらしいが、「夢の装置」たる本作においては意味など分からなくてもいい、というのが私の意見だ。いやむしろ「カオナシは匿名の時だけ傍若無人になる現代人のカリカチュアだ」なんてわけが分かったような薄っぺらい解釈をつけて「なるほどそういうことか」などと腑に落ちてしまうより、わけわからないままに夢的なイメージを味わう方がよっぽど楽しめる。腐れ神のエピソードにしても、川の汚染がどうのというメッセージに還元してしまうより、ドロドロの神様の体内からヘドロとともに大量がガラクタが噴出し、すっきりした神が龍になって天を駆けていく、というイメージの爽快さ、素晴らしさを堪能するべきだと思う。実際、目を見張るようなすばらしいシーンだ。
それからまた、この映画を「湯屋=遊郭であり、要するにこれは風俗で働かされる少女の話なのでけしからん」と批判する人がいるが、私には分からない。もちろん「八百万の神々が疲れを癒す場所」には性的な含みがあるし、そもそも湯屋の壁には「回春」なんて貼り紙もあるのだ。あからさまにせよ暗示的にせよ神話とはエロティックなものであって、神話のモチーフを取り入れたこの映画にその含みがないわけがない。だからこそ本作は豊穣なのである。「風俗なんてハレンチな」などというPTA的価値判断からどんなアートが生まれるというのだろう。そういう態度こそがキッチュだ、と思うがどうか。澁澤龍彦が言うように芸術とは本質的にアモラルなものであり、ミラン・クンデラが言うように「道徳的判断が停止する場所」なのである。いやこれは子供向けだからいかん、という意見があるかも知れないが、だからこの物語にはエロティックなシーンは存在しない。湯屋にどのような含みがあるにせよ、それらは隠蔽され、無意識化されている。それで充分だ。
宮崎駿の幻想力の醍醐味はこの映画の至るところで味わえる。たとえば龍を追って紙の人型が無数に飛来し、それが障子にぶつかって次々と貼りついていくシーン。布団が敷いてある畳の部屋にとぐろを巻く白い龍。千がハクを助けるために湯婆婆の部屋に行くと、「外はバイキンだらけだぞ」とか「遊んでくれないと泣いちゃうぞ」などといって千を脅す坊。宮崎駿の繰り出すイメージはきわめて動的だ。しかもこの映画の中では幻想的なものと日常的なものが平然とミックスされている。そして千がカオナシと電車に乗って海を渡っていくシーンの溢れる詩情を見よ。人々はみな幻のよう。窓から踏み切りを待つ親子連れ、一人でホームに立つスカートを穿いた少女、洗濯ものを干した西洋風の家。ノスタルジーの中から拾い上げられた蜃気楼のような断片たち。まるで幻想絵画のようだ。
宮崎駿の傑作群の中で、本作はそのイマジネーションの美しさをもっとも純粋に堪能できる映画だと思う。
結局、湯婆婆は湯屋を何の為に経営してるのか?ハクに何をやらせようとしていたのか?銭婆と湯婆婆の関係は?何でいがみ合ってるの?とか。(むしろカオナシのくだりは分かり易過ぎるような気がしました)
いや、それらにはもちろんそれなりに答えが出せるんだろうけど作品中ではちょっとした言葉でしか示唆されてなくて、何となくTVアニメ版「千と千尋」(なんてものがあったとしたらの話ですが)で大体の話を理解してる人にしか分からないような符丁で話が進んでいくので「はぁ?」となってしまいましたね。特に最後千尋がハクに昔助けられた(逆か?)みたいな話が突然出てきて「あれ?そんな伏線無かったけどなあ?」って戸惑いました。
ただego_danceさんの分析はその通りだと思いますね。僕も「わけがわからない夢的なイメージをそのまま楽しむ」のがこの作品の楽しみ方だと思います。
僕は「千と千尋の神隠し」はこの後の「ハウルの動く城」「崖の上のポニョ」と合わせて「ストーリー?なにそれ、食えるの?Dont Think,Feeeel!(ここ、リー師匠風に)四の五の言わず宮崎駿の奔放なイメージを楽しめ!三部作」と呼んでいます。(笑)
多分、作品単体でのストーリーの良く分からなさ・次から次へと繰り出される夢想的イマジネーションの豊富さという観点からは「千と千尋」よりも「ハウル」の方が上のような気がします。あれもストーリーはもうどうでもいい。
ポニョもよく分からなかったなあ・・・ストーリーのロジック性、つまり起承転結が最低限担保されてたのは「もののけ姫」までのような気がします。新作はどうなんだろ・・・?