アブソリュート・エゴ・レビュー

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生きものの記録

2016-02-06 11:03:01 | 映画
『生きものの記録』 黒澤明監督   ☆☆☆

 Criterionのクロサワ・ボックスから『生きものの記録』を鑑賞。これまで『醜聞』『素晴らしき日曜日』とハズレが続いたが、さすがにこれは『七人の侍』の次の作品なのでそうひどくはないだろうというのが事前の予想である。これもこれまでの二作と同じく大昔にレンタルビデオで一度観たきりで、A級とは言いがたい出来であることは覚えていたが、今観るとまた新たな発見があるかも知れないと考えた。

 さすがに、テクニック的には『醜聞』『素晴らしき日曜日』とは比べものにならない。志村喬演じる歯科医が水先案内人となって観客を物語の中にスムーズに誘導する役割を負っていること、中島一家が裁判所に来てまで何を争っているのか最初しばらくは分からないこと、などは冴えた技巧だし、夏の暑さが画面から染み出してくるような映像は、この映画の不穏なテーマを補強して効果的だ。中島(三船敏郎)は原水爆が落ちた時のためにシェルターを建設しようとして失敗、大金を浪費してしまったが、今度は懲りずにブラジルへ移住しようとしているのだ。それもこれも原水爆で死にたくないがために。長男夫婦や長女夫婦は彼を気違い扱いし、これ以上財産を浪費しないよう中島を準禁治産者扱いにして欲しいと訴えた。

 さて、中島は気違いなのか? 原水爆で死にたくないという恐怖で日本から逃げ出そうとするのは、果たして狂った行動なのだろうか? これがこの映画のテーマである。

 しかしながら、これは修辞的な問いというべきである。原水爆で死にたくないのは万人共通であり、当たり前のことである。しかしながら大多数の人間はそれを自分の力ではどうにもならないことと諦め、多分大丈夫だろうという希望的観測のもとに日々の暮らしを送っている。いわば、不安から目をそむけて生きている。その「目をそむけること」を止めたら人間どうなるか、を黒澤が実験したのがこの映画である。

 中島の非常識に見える行動が実は生きものとしては正常であり、つまり真実であり、彼を気違い扱いする大多数の人間の方が欺瞞である、というメッセージはわざわざ読み解くまでもない。映画のあらゆる場面でそれは念押しされる。志村喬が裁判所で言う「彼の気持ちは分からないじゃない。人間誰しも、原水爆を恐怖する気持ちがあるはずです」というセリフ。あるいは家で息子に言う「もしこれ(原水爆のことを書いた本)を読んだら、日本中の動物が日本から逃げ出すよ」というセリフ。あるいはラスト近くの精神科の医師が言う「あの患者を見ていると、狂っているのは彼ではなく自分の方ではないか、と思えてきて不安になるのです」という意味のセリフ。

 つまり、もし原水爆の恐怖を直視したらならば中島のようになるのが本当だ、というのが黒澤の考えである。そうならないのは、ひとえに私たちが自分を誤魔化しているからだ。さて、では原爆の恐怖を直視した中島はどうなったか。家族に準禁治産者の訴えを起こされる。裁判所から準禁治産者として認定され、自分の財産を使えなくなる。逃げ出すことを禁じられ、恐怖のあまりやつれ果てる。最後は本当に精神に異常を来たし、病院に収容される。悲惨きわまりない結末だ。どうやら原水爆の恐怖に真剣に対峙し、かつ人間としてのモラルを維持しようと思ったらこうなるしかないらしい。中島が直面するジレンマとは以下のようなものである。

1. ブラジルに逃げるというが、自分の家族さえ助かればいいのか。工場の社員たちは原水爆に焼かれて死んでもいいのか(中島は工場を経営している)。
2. 自分たちの家とブラジルの農場を交換するというが、農場の売り手は日本に来て住むことになる。彼らを自分の身代わりにして殺してもいいのか。
3. そもそも、ブラジルに逃げても原水爆からは逃れられない。本当に逃げ出したければ地球から出て行くしかない。

 このジレンマを突きつけられ、追い詰められた中島は正気を失う。つまり、原水爆の恐怖を直視すると発狂するしかないということらしい。とするならば、果たして黒澤はこの映画で何を言いたいのか。原水爆の恐怖は直視するべきだ、心配するべきだ、が、心配してもどうしようもないぞ。映画を観終わった観客を戸惑わせ、困惑させるのはこの矛盾である。結果的にこの映画はジレンマを呈示するにとどまっている。もしかしたら黒澤は、解決策は簡単に見つからないけれどもこの恐怖から目を逸らすべきではないと言いたいのかも知れない。あるいは、そんな状況に自らを追い込んでしまった人類全体を告発しているのかも知れない。しかしながら、このジレンマを消化しきれていないがゆえに、この映画に閉塞感が充満することになったのは否めない。

 かつ、映画は中島が状況に追い詰められていくプロセスを直線的に追っていくため、テーマの展開が一本調子になってしまっている。つまり、同じことをどんどん言い募るだけで、アンチテーゼや別の視点が出てこない。鑑賞後にこの映画を思い返すと、テクニックは堂々たるものだが物語は痩せているという印象が残る。確かにストーリーはスリリングでよく構成され、観客の関心を惹きつける。また黒澤の意図が真摯なものであることは疑いを容れない。が、作者の意図によってひたすら恐怖の寓話たらんとするこの映画からは、多義性や曖昧性によってもたらされるポエジーがすっぽり抜け落ちてしまったようだ。



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2 コメント

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Unknown (サム)
2016-02-07 19:52:33
『生きものの記録』はかなり前に名画座で観たんですが(黒澤映画三本立て)、監督の態度自体が狂信的に感じられて、どうも生理的に受けつけないなと思ったのを覚えています。自分自身、少年時代はまだ冷戦中だったので、世界最終戦争が起こるかもしれないと想像して恐くなったこともあるんですけどね。どうも共感できない。核はこんなに怖がるのに、最終的に人間は全員死ぬという動かしがたい事実についてはなんとも思わないのか、とか。核=死の恐怖を前にしたとき人がとる対応には様々な種類があるべきだろう、とか。いろいろな意味でバランスが悪いなと思ってしまいます・・・
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Unknown (ego_dance)
2016-02-13 13:54:08
やはり時代の空気というのもあるのでしょう。もちろん、原水爆は今でもなくなってないわけですが。原水爆が世界のどこで爆発しても気流の関係で死の灰が日本に集まってくる、なんてのは当時本当に言われていたのでしょうか。
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