アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

別荘

2014-12-20 20:15:14 | 
『別荘』 ホセ・ドノソ   ☆☆☆☆☆

 最近邦訳が出たドノソの長編を読了。『夜のみだらな鳥』に匹敵する、ドノソの絢爛たる悪夢的想像力が炸裂する異形の小説だ。中南米のある国で金箔ビジネスを一手に掌握し、経済を支配する富裕なペントゥーラ一族が主役で、舞台はその辺境の別荘だが、別荘のまわりには人食い人種が跋扈している、というからすでに世界が歪みきっている。ドノソの悪夢世界へようこそ。

 この広壮な別荘には執事と大勢の使用人達がいて、一族の大人達と33人の子供達にうやうやしく仕えているが、この使用人たちは主人に隠れて子供を拷問したりもするのである。んなアホな、と読者は思うだろうが、これも子供の躾のためなのだ。なぜならば、子供は文明人というより原始人に近く、人間というより動物に近いので、厳しくしつけないとすぐに屋敷の回りにいる人食い人種みたいになってしまうのである。といいながら、料理人は子供への「罰」と称してこっそり人間の肉を食わせたりしている。わけがわからない。しかしこうした理不尽と不条理とイマジネーションが一緒くたになった超現実的妄想の暴走こそが、本書を読む、そしてドノソの小説を読む醍醐味である。

 一応紹介すると、ストーリーは大体こんな感じだ。ある夏の日におとな達は使用人を引き連れてピクニックに出かけ、別荘には33人の子供達だけが残される。その間に、気が狂って幽閉されていた男アドリアノ・ゴマラと、別荘の外にいた人食い人種が結託して別荘を侵略し、別荘と子供達は荒廃する。おとな達は一日たって帰ってくるが、その間に、なぜか別荘では一年が経過していることになっていて、女の子が子供を産んでいたりする。それに気づいた使用人部隊は武装して別荘を襲い、人食い人種たちを片っ端から殺戮し、別荘を制圧する。この時、子供達の一部は荒野へ脱走する。その後ペントゥーラ一族のおとな達が別荘に戻り、高慢な外国人達に鉱山を売却しようと画策するが、そうこうするうちに綿毛の季節がやってきて、すべてを呑みこむ綿毛が逃げそびれた人々を窒息死させてしまう。

 と、あらすじだけ書いてもわけがわからない、悪夢のような、恐るべき子供が見る妄想のような、あるいは単なるのアホのたわごとかと心配になるような小説である。また、こうした物語の流れの中にさまざまな独立したエピソードが埋め込まれているが、それはたとえば女装した少年、子供達の秘密の遊び、金箔ビジネスの支配者と少女会計士たち、同性愛、料理人が子供達に人肉を食べさせる罰、洞窟になっている屋敷の地下、動物と植物のあいのこのような隠花植物、荒野で餓死する少年とその肉を食べて生き延びる子供たち、などであり、やはりどれこれもグロテスクで冒涜的なものばかりだ。

 ちなみに、別荘の回りに人食い人種がいるという基本設定からも分かるように、本書ではカニバリズムつまり食人が主要なモチーフとして、形を変えながら繰り返し出てくる。『夜のみだらな鳥』における「畸形」に相当するものだが、意図的にタブーを扱うドノソの面目躍如である。

 あとがきによれば、本書には政治的メタファーがあると作者自身が語っているそうだが、この小説はそれを考えないで読んだ方が面白い。一個の小宇宙のような別荘は確かに国のメタファーととれるし、おとなと子供、狂人によるクーデター、戦闘、制圧、外国資本への身売りなど、物語を構成する個々のエピソードもいかにもそれらしい。ただそうやって読んでしまうと簡単に絵解きできた気分になるし、生々しさが払拭され、暴力的な不条理や超現実が単なる記号になり下がってしまう。それではあまりにももったいない。

 それから「人食い人種」の設定などからも感じ取れることだが、ドノソの妄想にはどこか子供っぽく滑稽なところがあり、それが黒々とした物語の様相にある種の軽みを与え、重苦しくなることから救っている。もともとシュルレアリスム小説にはそういう滑稽味、つまり「笑い」の要素を含むものが多いけれども、本書も例外ではない。たとえば使用人の一人として登場するフアン・ペレスは、目立たない外見であるがゆえに毎年違う人間のふりをしてペントゥーラ一族に雇われ、そして誰もそれに気づかないというナンセンスな設定を与えられている。「ア、アホか…」となること必定である。こういうアホっぽさは本書のあちこちに垣間見ることができる。

 さらに、先のあらすじに書いた通り、大人たちがピクニックに行っていた間に経過した時間は1年なのか1日なのか、あるいは大人たちが無残に捨ててしまった「子供が産んだ赤ん坊」は人形だったのかそれとも本物の赤ん坊だったのか、はっきりしないまま放置される。時間の混乱の原因についてもまったく説明はない。こうした曖昧性、辻褄あわせの拒否、あるいは物語設計における意図的なパースの歪みといってもいいかも知れないが、これらは当然ながら意図的なものである。

 そしてもう一つ、この小説で非常に特徴的なのは「作者の介入」である。まず最初に、この小説が完全な虚構であり、この小説をあたかも事実であるかのように装うつもりはまったくない、という作者による宣言がなされる。そしてその後も作者が頻繁に物語の中に顔を出しては、この部分はこういうつもりで書いたとか、ここはこれこれの予定だったが結局やめてこうしたんだとか、今後この登場人物はもう出てこないとか、あるいは今後こういう風にストーリーを展開させる予定であるとか、いちいち読者に向かって説明するのである。これはもちろんメタフィクションの手法であり、ポストモダン的試みということになるだろうが、洒脱なメタフィクションというより濃密で狂気的な物語である本書でそれをやられると、合っているのか合っていないのか、効果的なのかどうかイマイチよく分からない、というのが正直なところだ。ただ少なくとも、この小説がそもそも持っている悪ふざけ感に拍車をかけているとは言えると思う。

 本書中、子供たちがずっと練習している演劇のことを常に「侯爵夫人は五時に外出した」と呼んでいることからも、ドノソが虚構のあり方を強く意識して本書を書いたことは間違いない。ちなみに「侯爵夫人は五時に外出した」とはポール・ヴァレリーからの引用で、旧弊な、全能の語り手を前提とした、「虚構」というものに無自覚な、時代遅れの小説の書き方の例とされている。

 このように圧倒的な想像力と異様なビジョン、不条理と理不尽、肥大するディテールとストラクチャーの歪み、濃密な物語性とメタフィクション性が一緒くたになって氾濫する本作は、やはりドノソにしか書けない異形の傑作といわざるを得ない。ただしストーリーの流れは錯綜、矛盾し、しばしば意味がつかみ難く、混沌としているために、一読して存分に醍醐味を味わった、とはなかなかいかない晦渋さをも持ち合わせている。しばらく置いてまた読み返してみたいと思う。



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