
『八つ墓村』 野村芳太郎監督 ☆☆☆★
日本版ブルーレイで鑑賞。私が子供の頃「たたりじゃあ~」が大流行したのはよく覚えているが、この映画は未見だった。今回、初鑑賞である。あの西村賢太が、横溝正史映画化作品の中でこれが一番好き、とエッセーに書いていたので観てみた。ちなみに横溝正史の原作は既読。
アマゾンのカスタマーレビューなんかを読むとやたら怖い怖いと書いてあるが、さすがに今の目で見るとそれほど怖くない。有名な落武者虐殺シーンは特撮が古いので、首が飛んだり手がちぎれたりと派手ではあるけれども、ケバケバしくチープな印象。それからこれも有名な、山崎努が猟銃と日本刀を持って、頭に懐中電灯を二本差して村人を殺して回る場面は確かに怖いが、ホラー的な怖さではなく凄絶というべきだろう。あの二本の懐中電灯は、やはり「鬼」のツノに擬してあるのだろうな。桜吹雪の中を走って人間を殺しに来る鬼。恐ろしくも美しい場面である。
しかし唯一背中が総毛立つような怖さを感じたのは、終盤の、あの鍾乳洞の中を主人公が延々追いかけられるシーンである。暗い、どこまでも続く鍾乳洞の中を、すすり泣くような、あるいは忍び笑うような声を漏らしながら、どこまでもどこまで追いかけてくる鬼女。これは怖かった。楳図かずおのホラー漫画の原型的シチュエーションの一つである。メークはやはり安っぽいのだが、あの状況そのものに悪夢的な怖さがある。子供の頃にこの場面を観たら、やっぱりトラウマになるだろう。あの場面はいっそメークを変えないで、例えば金目にするだけぐらいで良かったと思う。その方が余計に怖い場面になっただろう。
本作の話題は色々あるのだが、金田一耕助を渥美清が演じていることもその一つ。私は角川の横溝映画シリーズもリアルタイムでは観ていないので、金田一=石坂浩二というイメージはさほど刷り込まれていないが(たとえば、原作小説を読んでも石坂浩二の顔は浮かばない)、渥美清は「寅さん」のイメージが強過ぎるので抵抗を感じる人が多いのだろう。私は寅さん映画の大ファンなのでどうかなと思ったが、別にそれほど違和感はなかった。やはり寅さんとは違う。石坂浩二ほどの華はないが、実直でほっとできる金田一という感じだ。なんでも横溝正史によれば、この渥美清の金田一が実は一番原作者のイメージに近いという。
さて、この映画のミステリとしての構造に目を向けると、原作との最大の違いにしてもっとも論議を呼ぶポイントははっきりしている。あくまでミステリ小説の範疇内で勝負した原作小説を映画化するにあたって、野村監督は、これを本物の祟りの物語にしてしまった。この映画はもはやミステリではなくホラー、というかミステリの衣をまとった怪談である。従って原作の緻密な謎解き部分はまったく骨抜きにされてしまっている。映画終盤の金田一の謎解きは、謎解きの名に値しない。ほぼ独断で犯人を指摘し、あとは犯人の出自に人々の注意を促し、この事件の超自然的な側面を強調するのみである。当然、この部分は原作にはない。
従って、本作がミステリ・ファンに評判が悪いのは当然である。金田一耕助が出てくるとはいえ、これはミステリではなく怪談なのである。一方で、怪談風の奇譚として見ればそれなりに楽しめる。確かにチープな特撮によるグロ演出や鍾乳洞の場面がやたら長いなど、ゆるい部分は多々ある。が、寡黙でシャイな主人公を演じるショーケンがそれでも放つ華、それから豪華女優陣、つまり小川真由美、山本陽子、中野良子らの艶やかな競演は見ものだ。特に小川真由美は知的なスーツ姿のクールビューティでありつつ、妙に胸元が空いてたり、スカートのスリットが風でめくれたりと、過剰な色っぽさを発散している。これにはもうおじさんメロメロだ。もちろん、山崎努の「鬼」の凄絶な存在感は言うまでもない。
しかしまあ、極端な言い方をすれば、桜吹雪の中をやってくる山崎努の「鬼」と、鍾乳洞の中を亡霊のように走る「鬼女」のインパクト、この二つがほぼすべての映画である。反面、それだけで十分といえば十分だ。この映画のケバケバしい装飾部分をどんどん取り除いていけば、その核にはきわめて日本的な、血や縁や怨念と切り離せない原型的な恐怖が存在する。この恐怖の感覚は、日本人にとってどこかなつかしいもののような気すらする。
日本版ブルーレイで鑑賞。私が子供の頃「たたりじゃあ~」が大流行したのはよく覚えているが、この映画は未見だった。今回、初鑑賞である。あの西村賢太が、横溝正史映画化作品の中でこれが一番好き、とエッセーに書いていたので観てみた。ちなみに横溝正史の原作は既読。
アマゾンのカスタマーレビューなんかを読むとやたら怖い怖いと書いてあるが、さすがに今の目で見るとそれほど怖くない。有名な落武者虐殺シーンは特撮が古いので、首が飛んだり手がちぎれたりと派手ではあるけれども、ケバケバしくチープな印象。それからこれも有名な、山崎努が猟銃と日本刀を持って、頭に懐中電灯を二本差して村人を殺して回る場面は確かに怖いが、ホラー的な怖さではなく凄絶というべきだろう。あの二本の懐中電灯は、やはり「鬼」のツノに擬してあるのだろうな。桜吹雪の中を走って人間を殺しに来る鬼。恐ろしくも美しい場面である。
しかし唯一背中が総毛立つような怖さを感じたのは、終盤の、あの鍾乳洞の中を主人公が延々追いかけられるシーンである。暗い、どこまでも続く鍾乳洞の中を、すすり泣くような、あるいは忍び笑うような声を漏らしながら、どこまでもどこまで追いかけてくる鬼女。これは怖かった。楳図かずおのホラー漫画の原型的シチュエーションの一つである。メークはやはり安っぽいのだが、あの状況そのものに悪夢的な怖さがある。子供の頃にこの場面を観たら、やっぱりトラウマになるだろう。あの場面はいっそメークを変えないで、例えば金目にするだけぐらいで良かったと思う。その方が余計に怖い場面になっただろう。
本作の話題は色々あるのだが、金田一耕助を渥美清が演じていることもその一つ。私は角川の横溝映画シリーズもリアルタイムでは観ていないので、金田一=石坂浩二というイメージはさほど刷り込まれていないが(たとえば、原作小説を読んでも石坂浩二の顔は浮かばない)、渥美清は「寅さん」のイメージが強過ぎるので抵抗を感じる人が多いのだろう。私は寅さん映画の大ファンなのでどうかなと思ったが、別にそれほど違和感はなかった。やはり寅さんとは違う。石坂浩二ほどの華はないが、実直でほっとできる金田一という感じだ。なんでも横溝正史によれば、この渥美清の金田一が実は一番原作者のイメージに近いという。
さて、この映画のミステリとしての構造に目を向けると、原作との最大の違いにしてもっとも論議を呼ぶポイントははっきりしている。あくまでミステリ小説の範疇内で勝負した原作小説を映画化するにあたって、野村監督は、これを本物の祟りの物語にしてしまった。この映画はもはやミステリではなくホラー、というかミステリの衣をまとった怪談である。従って原作の緻密な謎解き部分はまったく骨抜きにされてしまっている。映画終盤の金田一の謎解きは、謎解きの名に値しない。ほぼ独断で犯人を指摘し、あとは犯人の出自に人々の注意を促し、この事件の超自然的な側面を強調するのみである。当然、この部分は原作にはない。
従って、本作がミステリ・ファンに評判が悪いのは当然である。金田一耕助が出てくるとはいえ、これはミステリではなく怪談なのである。一方で、怪談風の奇譚として見ればそれなりに楽しめる。確かにチープな特撮によるグロ演出や鍾乳洞の場面がやたら長いなど、ゆるい部分は多々ある。が、寡黙でシャイな主人公を演じるショーケンがそれでも放つ華、それから豪華女優陣、つまり小川真由美、山本陽子、中野良子らの艶やかな競演は見ものだ。特に小川真由美は知的なスーツ姿のクールビューティでありつつ、妙に胸元が空いてたり、スカートのスリットが風でめくれたりと、過剰な色っぽさを発散している。これにはもうおじさんメロメロだ。もちろん、山崎努の「鬼」の凄絶な存在感は言うまでもない。
しかしまあ、極端な言い方をすれば、桜吹雪の中をやってくる山崎努の「鬼」と、鍾乳洞の中を亡霊のように走る「鬼女」のインパクト、この二つがほぼすべての映画である。反面、それだけで十分といえば十分だ。この映画のケバケバしい装飾部分をどんどん取り除いていけば、その核にはきわめて日本的な、血や縁や怨念と切り離せない原型的な恐怖が存在する。この恐怖の感覚は、日本人にとってどこかなつかしいもののような気すらする。
いまは、目に見えぬコロナウィルスの方が不気味です。
舞台で演じるこの作品を見てきました。
とうぜん、会場内はマスク姿が多かったです。
この映画は、萩原健一 が金田一耕助を演じたのですね。