『ヴァルカンの鉄鎚』 フィリップ・K・ディック ☆☆
ディック最後の未訳長編だった『ヴァルカンの鉄鎚』の翻訳がついに出た。ファンとしてこれは読むべきだろうと思って買ったが、まあ、やはり大した出来ではなかった。最後の未訳長編になっただけのことはある。ディックのファンは作品の完成度よりむしろディックらしさを珍重する傾向にあるが、そうしたディックらしさという点でも物足りない。
ヴァルカン3号という巨大コンピューターがすべての政策を決定している未来社会の話で、そのヴァルカン3号に直接接触できるのは統轄弁務官ただ一人。人類が機械に牛耳られているこの状況を変えるべく、<癒しの道>教団がテロ活動をしている。ディックのSFではありがちなこんな設定の中で、北部アメリカ弁務官バリスが「なぜヴァルカン3号は<癒しの道>教団について何もコメントしないのか。もしや統轄弁務官が情報をインプットせず、隠蔽しているのでは?」と疑念にかられて統轄弁務官に会いにいったり、<癒しの道>教団の指導者にヘッドハントされそうになったりしているうちに、事態の鍵を握る人間が一人ずつ殺されていく。どうやら政府でも<癒しの道>教団でもない、第三の勢力があるらしい。それは何だ? という風に話は進んでいく。
ディックの代名詞である現実崩壊、神秘体験などもない。ディックらしいガジェットとしては、まあヴァルカン3号がリモートコントロールする殺人機械がそれに相当する程度だ。怪鳥のように空を飛ぶその機械は、もともとはヴァルカン3号のメンテナンス用器具を改良したもので、だから頭部がハンマー(鉄槌)の形状をしている。で、これが「ヴァルカンの鉄槌」。思わず脱力するほどストレートなタイトルの意味だった。まあハンマーを改良した殺人機械という発想は悪くないが、たとえばゲシュタルト構成機やドラッグ銃のようなディック式ガジェットの傑作と比べると、生彩に欠ける。そもそもコンピューターが支配する社会やコンピューターが使役する殺人機械というアイデアそのものが、今やSFアクションものの常套と化している。『ターミネーター』シリーズもそうだし。
その他ディックらしいギョッとするような発想や捻り、かっとんだシュールさもない。前半はミステリがあってまだ惹きつけられるが、後半は戦闘場面が続く単なるアクションものになってしまい、いかにもやっつけのエンタメ作品といった趣である。結末も、ディックにしては珍しいハッピーエンドだ。
本書はディック・ファンにとっても微妙な作品だろうし、それ以外の人にはまったくおススメできない。ディックの翻訳家諸氏はこんなSFの駄作を訳すよりも、ディックの普通小説を訳して欲しい。まだお宝が眠っているはずなのである。私が特に読みたいと思っているのは「the man whose teeth were all exactry alike」や「humpty dumpty in oakland」あたりだが、SF長編はこれで全部翻訳されたということで、これからは普通小説に着手してもらえないだろうか。是非ともお願いしたい。
ディック最後の未訳長編だった『ヴァルカンの鉄鎚』の翻訳がついに出た。ファンとしてこれは読むべきだろうと思って買ったが、まあ、やはり大した出来ではなかった。最後の未訳長編になっただけのことはある。ディックのファンは作品の完成度よりむしろディックらしさを珍重する傾向にあるが、そうしたディックらしさという点でも物足りない。
ヴァルカン3号という巨大コンピューターがすべての政策を決定している未来社会の話で、そのヴァルカン3号に直接接触できるのは統轄弁務官ただ一人。人類が機械に牛耳られているこの状況を変えるべく、<癒しの道>教団がテロ活動をしている。ディックのSFではありがちなこんな設定の中で、北部アメリカ弁務官バリスが「なぜヴァルカン3号は<癒しの道>教団について何もコメントしないのか。もしや統轄弁務官が情報をインプットせず、隠蔽しているのでは?」と疑念にかられて統轄弁務官に会いにいったり、<癒しの道>教団の指導者にヘッドハントされそうになったりしているうちに、事態の鍵を握る人間が一人ずつ殺されていく。どうやら政府でも<癒しの道>教団でもない、第三の勢力があるらしい。それは何だ? という風に話は進んでいく。
ディックの代名詞である現実崩壊、神秘体験などもない。ディックらしいガジェットとしては、まあヴァルカン3号がリモートコントロールする殺人機械がそれに相当する程度だ。怪鳥のように空を飛ぶその機械は、もともとはヴァルカン3号のメンテナンス用器具を改良したもので、だから頭部がハンマー(鉄槌)の形状をしている。で、これが「ヴァルカンの鉄槌」。思わず脱力するほどストレートなタイトルの意味だった。まあハンマーを改良した殺人機械という発想は悪くないが、たとえばゲシュタルト構成機やドラッグ銃のようなディック式ガジェットの傑作と比べると、生彩に欠ける。そもそもコンピューターが支配する社会やコンピューターが使役する殺人機械というアイデアそのものが、今やSFアクションものの常套と化している。『ターミネーター』シリーズもそうだし。
その他ディックらしいギョッとするような発想や捻り、かっとんだシュールさもない。前半はミステリがあってまだ惹きつけられるが、後半は戦闘場面が続く単なるアクションものになってしまい、いかにもやっつけのエンタメ作品といった趣である。結末も、ディックにしては珍しいハッピーエンドだ。
本書はディック・ファンにとっても微妙な作品だろうし、それ以外の人にはまったくおススメできない。ディックの翻訳家諸氏はこんなSFの駄作を訳すよりも、ディックの普通小説を訳して欲しい。まだお宝が眠っているはずなのである。私が特に読みたいと思っているのは「the man whose teeth were all exactry alike」や「humpty dumpty in oakland」あたりだが、SF長編はこれで全部翻訳されたということで、これからは普通小説に着手してもらえないだろうか。是非ともお願いしたい。
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