アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

小津ごのみ

2015-11-14 11:51:42 | 
『小津ごのみ』 中野翠   ☆☆☆☆

 中野翠の、小津映画に関するエッセー集。この人はかなりの小津ファンらしく、細かいところまでマニアックな視点が行き届いていて、同じ小津映画のファンにとってはこたえられない内容になっている。評論というほど肩肘はったものではなく、小津映画の好きなところ面白いと思うところを愉しんで語るというスタンスで、タイトルの「小津ごのみ」はそういう意味でも本書によく似合っていて、秀逸だと思う。

 作者自身があとがきで本書の特徴を箇条書きにしているので、簡潔に記載しておこう。ファッション、インテリア、役者の顔など「目に見えるもの」に執着しているところ。戦前の小津映画に多くの紙数をさき、小津は戦前戦後ともに一貫してモダニストだったという立場を取っているところ。記号論的な、性的な深読みをすることに違和感を持っているところ。戦後の小津調ホームドラマを家族愛の物語ではなく無常の物語と捉えているところ。女の登場人物や女優の話が多くなったところ。以上五つである。「性的な深読み」とは、たとえば『晩春』の壺のシーンに近親相姦的感情を読み取るようなことである。

 最初はタイトルバックのドンゴロスや着物の話ばかりなので、この方面の知識がない私はあまり乗れないでいたが、やがて大道具小道具のセンスの話になり、役者の話になり、最終的には小津映画のテーマや本質の話になっていく。小津監督のインタビューからの引用、笠智衆のインタビューや自伝からの引用なども多くあり、大変参考になる。

 私が特に共感できた点としては、感情表現過多への違和感がある。中野翠は小津映画に慣れると他の映画を「うるさい」と感じるようになり、それは感情表現過多によるものだと書いている。また、『東京物語』における夫婦の会話(本当の感情は仄めかすにとどめる)とベルイマン映画における父子の会話(怨嗟の念を赤裸々にぶつけあう)を比較し、ベルイマンの方には「まったくついていけない」と心境を吐露している。私も『秋のソナタ』で同様の違和感を感じたので、完全に共感できる。やはりこれはニュアンスを重視する日本人と、何でも明快に伝達しようとする西洋人の違いだろうか。

 役者の演技についても、小津は笠智衆を『父ありき』の主演に起用する時に「表情はいりません。能面で行って下さい」と言ったという。やはりそうだったかと膝を打ちたくなった。私も「おれの演技力を見よ」とばかりのこれみよがしな演技がダメで、トム・ハンクスなどがその典型例だが、慟哭する演技などを熱っぽく見せられるとうんざりしてしまう。そういう意味ではやはり、たけしやカウリスマキこそが小津の後継者なんだなということがよく分かった。

 それから「性的暗示」説への違和感も同感で、有名な『晩春』の壺のシーンもそうだが、『東京物語』の紀子のセリフにも性的な深層心理を「読み取る」人がいると知って驚いた。そんなところでみみっちい深読みするよりもっと見るところがあるだろうと思ってしまうが、まあ、歯に衣着せずに言えば「ゲスの勘繰り」って奴だな。

 それから小津はリアリズムではなく、自分の美意識の世界を表現した映画作家だという指摘も面白かった。日常的なホームドラマばかり撮っているのでリアリズム路線のような気がしてしまうが、小津の世界は実はリアリズムではないのである。また社会性を欠いているという批判に対して小津が返した、泥と蓮のメタファーも見事だ。蓮の花も真実なら泥の中の根っこも真実、自分は蓮の花を描くのだ、という回答だが、要するに小津は「糞は臭い」というような映画は嫌いだというのだ。これもまったく同意見で、世の中にはことさらに醜い、あるいは汚い、あるいは残虐なものを描いて「これこそ真実だ、目を背けるな」と主張するみたいな映画があるが、そんなもんはいらんのである。うんこを撮って「糞は臭い」といって何が面白いのか。面白いと思う人は単にスカトロ趣味というだけのことだ。

 小津のホームドラマの主題が家族愛ではなく無常であることを「小津映画の主役は時間」と表現しているのも興味深かった。私がそのことを強烈に体感した映画は『麦秋』だったが、中野翠はこれを、無常がせめぎあう場としての「ホームドラマ」と書いている。そして、小津映画を「小市民的生活のシアワセ」を描くものと揶揄的に発言した鈴木清順監督の言葉に、真っ向から反論してみせる。まあ対談の中で軽い気持ちで言ったのだろうが、どう考えてもこの鈴木清順の発言は浅はかである。
 
 その他、有名な真正面のカメラアングルは役者の顔を見せるためだという考察や、他の監督がみんな役者の訛りを気にする中、小津監督は笠智衆の熊本訛りをまったく気にしなかった話など、非常に面白く、また興味深い。それからタイトルバックの模様(これが「ドンゴロス」というものであることを初めて知った)、役の名前(「紀子」や「周吉」)、女性キャラクターの服装(白いブラウスにスカート、着物なら無地の帯)、映画のストーリー(娘の結婚)まで大体同じという、きわめて不可思議な小津映画の「マンネリズム」をはっきりと指摘し、このように小津映画は実にヘンテコなのだと読者に注意を促している。私も小津の不思議な「マンネリズム」には引っかかっていて、私なりに細かい例をあげればあの「トリスバー」だが、一体この「マンネリズム」の背後にはどういう哲学があるのか。にもかかわらず名作だらけになってしまうのはなぜなのか。など、とても考えさせられる。小津映画には興味深い謎が多い。

 そのことを中野翠はあとがきで、「小津はやっぱり大きい。…(中略)…ファッション方向から攻めて行っても、監督術方向から攻めて行っても、生きかた方向から攻めて行っても…どこから攻めて行っても面白く、際限もなく興味をかきたてられる」と書いている。小津の魅力を端的に表現した一文だと思う。

 ところで本書で紹介されていた小津の言葉に、「なんでもないことは流行に、重大なことは道徳に、芸術のことは自分に従う」というのがあり、小津監督らしくてとても気に入った。小津安二郎とは美意識の人であり、要するに「小津ごのみ」の人なのだということがこの言葉からも良く分かる。それから本書を読むとむしょうに戦前の小津映画を観たくなるので要注意だ。私はこれからDVD大量購入します。



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2 コメント

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Unknown (青達)
2015-11-22 00:26:17
ええっと、文中の「浅墓」なんですが。どうにも違和感があったので広辞苑で調べてみましたがやはり「浅はか」の「はか」はひらがなになってます。多分、量の意味の「はか」(はかが行く等)ではないかなあ? わかんないけど。

 まあ、この場合の「浅墓」は「鈴木清順は浅い墓にでも埋めておけ」という意味では正解かな(爆)
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Unknown (ego_dance)
2015-11-22 13:33:57
気にしませんでしたが、当て字のようなので変更しました。
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