
『乾いた花』 篠田正浩監督 ☆☆☆☆
1964年のモノクロ映画。日本版のフィルム・ノワールである。クライテリオン版のブルーレイで鑑賞。
主演は池部良と加賀まりこ。人を殺して刑務所に入っていたヤクザ・村木(池部良)は三年ぶりに出所し、賭場で虚無的な娘・冴子(加賀まりこ)と出会う。生きることは退屈だという冴子はその賭場に飽き足らず、もっと大金を賭けられる賭場はないかと村木に尋ねる。村木は冴子を闇の賭場に連れていく。冴子はそこでも見事な賭けっぷりで賭場の客たちを惹きつけるが、それでも飽き足らず村木を乗せたスポーツカーで夜の街を暴走し、麻薬にも興味を示す。村木は麻薬だけは止めろと言うが、闇賭場に不気味にたたずむ香港帰りの殺し屋・葉(よう)と冴子が接近し、破滅を招く暗い予感に捕らわれる。やがて村木はヤクザの親分たちの駆け引きの駒となって、再び殺しをする羽目になる。村木は面白いものを見せてやると冴子に言い、彼女が見ている前で人を殺すのだった。
篠田監督はブルーレイ特典のインタビューの中で、それまでの任侠ものとは違うヤクザ映画を目指したと言っている。また、武満徹の不協和音の音楽は当時、世界でももっともアバンギャルドだったはずとも言っている。確かに、モノクロの暗くスタイリッシュな映像、不協和音の前衛的な音楽、賭場で行われる花札ばくちの奇妙に儀式的なディテールなどがあいまって、きわめてクール、かつどこか観念的なフィルム・ノワールとなっている。
ストーリーに関して篠田監督のインタビューから引用すると、村木は冴子に神を求めた、だから機会があっても彼女を抱かなかった。従来の世俗的な男女関係、つまり結婚や愛人関係ではない、もっと別の、孤独な人間同士の神聖なつながりを求めた。しかしそれは結局うまくいかない。最後の村木の殺人は、キリストの磔刑と同じ意味を持っている。そんなことを語っているが、これが通常の犯罪映画から大きくはみ出したコンセプトであることは明らかだろう。
こうした観念性、儀式性がこの映画の大きな特徴で、独特のクールで斬新な雰囲気を醸し出しているが、今私たちが観てもすべてが新鮮、というわけにはいかない。特に前半に顕著な村木と冴子の虚無的な言動、たとえば「みんなブタだ」「生きるって退屈」「どっちでもいいことだ」などのセリフはいかにも退廃をひけらかしているようで、さすがに時代を感じさせる。篠田監督もインタビューで言及しているが、このムードはおそらく冷戦構造がベースとなった当時の時代感覚を反映しているのだろう。ある意味興味深くはあるが、今見ると当時の流行におもねっているようでいささか浅薄である。
その浅薄さも逆に楽しい、と開き直ってしまえないのは映画全体の過剰にシリアスな、ユーモアのかけらもない冷たい空気のせいだと思う。このしかつめらしさと浅薄さはまったく相性が悪い組み合わせで、前半ではほとんど致命的とさえ思える。冷たい空気は部分的にほとんど怪談じみているほどだが、そこに武満の不協和音音楽が加わり、更に怪談的ムードに拍車をかける。
後半になると、村木の中で膨れ上がっていく殺し屋・葉の不気味な影への不安、それと並行して昂じていく冴子への憧憬(恋愛感情とは違うので、憧憬と呼ぶのがふさわしい)が拮抗して、ロマンティックで不条理な恋愛劇としての色合いが強まってくる。前半の冷笑的、退廃的な気取りが薄れて、個人的には好もしい。そのハイライトがあの殺人シーンである。冴子の凝視のもとで人を殺す村木は、篠田監督の解説を待つまでもなく、自分の命と人生を彼女に捧げたのである。
そして更に良いのが、あのエピローグ。冴子のあっけない、幻滅的な、ただ村木に伝聞で伝わってくるだけの死。彼女の正体が結局分からないのもいい。このクライマックスからエピローグへの流れは非常に見事で、この映画の印象を五割方アップさせている。
池部良はまじめなサラリーマンからヤクザまで色んな役を巧みに演じ分ける大御所俳優というイメージだが、この映画に出演する前に初挑戦した舞台で失敗し、セリフがうまく喋れないと批判され、家に閉じこもっていたという。篠田監督はこの映画の主演には旬の俳優ではなく、一度落ちぶれた役者を持ってきたかった、たとえば今でいうミッキー・ロークみたいな、と言っていて、まあそんな一度ミソがついた俳優ということで池部良を起用したらしい。スター俳優にも色々あるんだな。ヒロインの加賀まりこは非常に少女っぽく、いくらなんでもこれは賭場に似合わないなあ、と最初は思ったが、逆に妖精っぽい現実離れした雰囲気が出ているとも言える。
1964年のモノクロ映画。日本版のフィルム・ノワールである。クライテリオン版のブルーレイで鑑賞。
主演は池部良と加賀まりこ。人を殺して刑務所に入っていたヤクザ・村木(池部良)は三年ぶりに出所し、賭場で虚無的な娘・冴子(加賀まりこ)と出会う。生きることは退屈だという冴子はその賭場に飽き足らず、もっと大金を賭けられる賭場はないかと村木に尋ねる。村木は冴子を闇の賭場に連れていく。冴子はそこでも見事な賭けっぷりで賭場の客たちを惹きつけるが、それでも飽き足らず村木を乗せたスポーツカーで夜の街を暴走し、麻薬にも興味を示す。村木は麻薬だけは止めろと言うが、闇賭場に不気味にたたずむ香港帰りの殺し屋・葉(よう)と冴子が接近し、破滅を招く暗い予感に捕らわれる。やがて村木はヤクザの親分たちの駆け引きの駒となって、再び殺しをする羽目になる。村木は面白いものを見せてやると冴子に言い、彼女が見ている前で人を殺すのだった。
篠田監督はブルーレイ特典のインタビューの中で、それまでの任侠ものとは違うヤクザ映画を目指したと言っている。また、武満徹の不協和音の音楽は当時、世界でももっともアバンギャルドだったはずとも言っている。確かに、モノクロの暗くスタイリッシュな映像、不協和音の前衛的な音楽、賭場で行われる花札ばくちの奇妙に儀式的なディテールなどがあいまって、きわめてクール、かつどこか観念的なフィルム・ノワールとなっている。
ストーリーに関して篠田監督のインタビューから引用すると、村木は冴子に神を求めた、だから機会があっても彼女を抱かなかった。従来の世俗的な男女関係、つまり結婚や愛人関係ではない、もっと別の、孤独な人間同士の神聖なつながりを求めた。しかしそれは結局うまくいかない。最後の村木の殺人は、キリストの磔刑と同じ意味を持っている。そんなことを語っているが、これが通常の犯罪映画から大きくはみ出したコンセプトであることは明らかだろう。
こうした観念性、儀式性がこの映画の大きな特徴で、独特のクールで斬新な雰囲気を醸し出しているが、今私たちが観てもすべてが新鮮、というわけにはいかない。特に前半に顕著な村木と冴子の虚無的な言動、たとえば「みんなブタだ」「生きるって退屈」「どっちでもいいことだ」などのセリフはいかにも退廃をひけらかしているようで、さすがに時代を感じさせる。篠田監督もインタビューで言及しているが、このムードはおそらく冷戦構造がベースとなった当時の時代感覚を反映しているのだろう。ある意味興味深くはあるが、今見ると当時の流行におもねっているようでいささか浅薄である。
その浅薄さも逆に楽しい、と開き直ってしまえないのは映画全体の過剰にシリアスな、ユーモアのかけらもない冷たい空気のせいだと思う。このしかつめらしさと浅薄さはまったく相性が悪い組み合わせで、前半ではほとんど致命的とさえ思える。冷たい空気は部分的にほとんど怪談じみているほどだが、そこに武満の不協和音音楽が加わり、更に怪談的ムードに拍車をかける。
後半になると、村木の中で膨れ上がっていく殺し屋・葉の不気味な影への不安、それと並行して昂じていく冴子への憧憬(恋愛感情とは違うので、憧憬と呼ぶのがふさわしい)が拮抗して、ロマンティックで不条理な恋愛劇としての色合いが強まってくる。前半の冷笑的、退廃的な気取りが薄れて、個人的には好もしい。そのハイライトがあの殺人シーンである。冴子の凝視のもとで人を殺す村木は、篠田監督の解説を待つまでもなく、自分の命と人生を彼女に捧げたのである。
そして更に良いのが、あのエピローグ。冴子のあっけない、幻滅的な、ただ村木に伝聞で伝わってくるだけの死。彼女の正体が結局分からないのもいい。このクライマックスからエピローグへの流れは非常に見事で、この映画の印象を五割方アップさせている。
池部良はまじめなサラリーマンからヤクザまで色んな役を巧みに演じ分ける大御所俳優というイメージだが、この映画に出演する前に初挑戦した舞台で失敗し、セリフがうまく喋れないと批判され、家に閉じこもっていたという。篠田監督はこの映画の主演には旬の俳優ではなく、一度落ちぶれた役者を持ってきたかった、たとえば今でいうミッキー・ロークみたいな、と言っていて、まあそんな一度ミソがついた俳優ということで池部良を起用したらしい。スター俳優にも色々あるんだな。ヒロインの加賀まりこは非常に少女っぽく、いくらなんでもこれは賭場に似合わないなあ、と最初は思ったが、逆に妖精っぽい現実離れした雰囲気が出ているとも言える。
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