『沙羅双樹』 河瀬直美監督 ☆☆☆☆
しゃらそうじゅ、と読む。『萌の朱雀』河瀬直美監督の現時点での最新作(2003年)、そして唯一DVD化されている作品。『萌の朱雀』がとにかく好きで、ビデオも持っている。何とかして他の作品も観たいとずーっと思っていたのでAmazonで見つけて即購入した。
期待通りというか、『萌の朱雀』と非常によく似た感触の映画だった。あえて言うなら、山奥の寒村を舞台にした『萌の朱雀』ほどの神秘性はなく、その代わりエネルギッシュな祭りのシーンや延々と路地を走り抜けていくシーンなどが、基本的に静謐なこの映画全体にダイナミズムを与えていた。説明をばっさり切って余韻で見せるスタイルはより徹底していたかも知れない。あの少年と少女のキスシーンは印象的だった。唐突なキス、それだけ。それ以外に何もない、言葉もない。あんなシーンを撮るにはものすごい才能が必要なんじゃないか。
この人の映像はドキュメンタリータッチで、『誰も知らない』の是枝監督の映像と似ている。河瀬監督の方は俳優の演技からも極力作為が排されていて、時々何を言ってるのか聞き取れない台詞回しや、中途半端で途切れる台詞など、より「アンチ芝居」的な映画になっている。『萌の朱雀』を観た時最も驚いたのはこれだった。あの映画を観ると、他の映画の中の俳優達の喋りがいかに不自然かが分かる。はたで聞いている人がすべて状況を理解できるような、あんな説明的な台詞をあんなに理路整然と喋る人達はいない。家族同士や兄弟同士の会話なら尚更である。『萌の朱雀』ほどではなかったが、本作でもその傾向は見られる。なので、樋口可南子の「今演技してます」的な俳優口調が時々気になった。普通の映画なら全然気にならない程度なのだが、この映画だと気になるのだ。一方、若々しいお父さん役の生瀬勝久は非常に良かった。この映画の中で最も印象が強い人物だった。
最初の方では、それぞれのシーンの『萌の朱雀』との類似点が妙に目に付いた。祭りの打ち合わせシーンと、駅の建設について村で話し合うシーン、神隠しにあった兄が見つかったという知らせが来るシーンと、お父さんが見つかったという知らせが来るシーン。似ている。映画全体としても、身近な人間の不思議な喪失をモチーフにしているという点で似ている。これは河瀬直美のオブセッションなのだろうか。
あらすじは大体こんな感じだ。俊の双子の兄、ケイは、ある日俊と遊んでいる時にふいにいなくなってしまう。五年後、俊は高校生になり、ケイの絵を描いている。幼馴染の夕とはいい感じだ。お父さんは祭りの実行委員長をやってて準備に余念がない。そんなある日、ケイが見つかったとの知らせが来る。家族は動揺する。(ケイがどうなったかの説明は完全に省かれる) 一方夕は、育ての母から本当の母親は他にいると聞かされる。俊のお父さんは、「ちゃんとしようと思ってるねん」「ちゃんとするで」と何かにつけ口にする。ケイの件だと思われるが、説明はされない。祭りがやってくる。雨の中で踊る夕と俊、そしてお父さん。夕は俊にお守りを渡す。俊の母が家の中で、みんなに見守られた中で出産する。元気に泣く赤ん坊。俊は涙を流す。
肝心なのは、(ケイがどうなったかの説明は完全に省かれる)の部分である。この映画の中で最も重要なモチーフであるはずの双子の兄の神隠しの顛末、それが見事に、キレイさっぱり省かれている。「見つかった」といいながらその後でケイが一度も登場しないからには、死んで見つかったということだろうが、「ちゃんとする」とはどういうことだろう。
この部分が省かれたことによって、この映画は神隠しという特殊なイベントについてではなく、まわりの人々がその大きな喪失を抱えつつも生きていく姿についての象徴的な、普遍性を帯びた物語になった。赤ん坊の誕生とともに訪れるエンディングが実に美しい。
ちなみに沙羅双樹とはインド原産の常緑樹の名前。白い花を咲かせ、散るときは花びらは散らず花がぽとんと落ちるいさぎよい散り方をする。そのため平家物語では世の無常を象徴する花として登場したらしい。
それにしても、『萌の朱雀』はいつになったらDVDになるんだ?
しゃらそうじゅ、と読む。『萌の朱雀』河瀬直美監督の現時点での最新作(2003年)、そして唯一DVD化されている作品。『萌の朱雀』がとにかく好きで、ビデオも持っている。何とかして他の作品も観たいとずーっと思っていたのでAmazonで見つけて即購入した。
期待通りというか、『萌の朱雀』と非常によく似た感触の映画だった。あえて言うなら、山奥の寒村を舞台にした『萌の朱雀』ほどの神秘性はなく、その代わりエネルギッシュな祭りのシーンや延々と路地を走り抜けていくシーンなどが、基本的に静謐なこの映画全体にダイナミズムを与えていた。説明をばっさり切って余韻で見せるスタイルはより徹底していたかも知れない。あの少年と少女のキスシーンは印象的だった。唐突なキス、それだけ。それ以外に何もない、言葉もない。あんなシーンを撮るにはものすごい才能が必要なんじゃないか。
この人の映像はドキュメンタリータッチで、『誰も知らない』の是枝監督の映像と似ている。河瀬監督の方は俳優の演技からも極力作為が排されていて、時々何を言ってるのか聞き取れない台詞回しや、中途半端で途切れる台詞など、より「アンチ芝居」的な映画になっている。『萌の朱雀』を観た時最も驚いたのはこれだった。あの映画を観ると、他の映画の中の俳優達の喋りがいかに不自然かが分かる。はたで聞いている人がすべて状況を理解できるような、あんな説明的な台詞をあんなに理路整然と喋る人達はいない。家族同士や兄弟同士の会話なら尚更である。『萌の朱雀』ほどではなかったが、本作でもその傾向は見られる。なので、樋口可南子の「今演技してます」的な俳優口調が時々気になった。普通の映画なら全然気にならない程度なのだが、この映画だと気になるのだ。一方、若々しいお父さん役の生瀬勝久は非常に良かった。この映画の中で最も印象が強い人物だった。
最初の方では、それぞれのシーンの『萌の朱雀』との類似点が妙に目に付いた。祭りの打ち合わせシーンと、駅の建設について村で話し合うシーン、神隠しにあった兄が見つかったという知らせが来るシーンと、お父さんが見つかったという知らせが来るシーン。似ている。映画全体としても、身近な人間の不思議な喪失をモチーフにしているという点で似ている。これは河瀬直美のオブセッションなのだろうか。
あらすじは大体こんな感じだ。俊の双子の兄、ケイは、ある日俊と遊んでいる時にふいにいなくなってしまう。五年後、俊は高校生になり、ケイの絵を描いている。幼馴染の夕とはいい感じだ。お父さんは祭りの実行委員長をやってて準備に余念がない。そんなある日、ケイが見つかったとの知らせが来る。家族は動揺する。(ケイがどうなったかの説明は完全に省かれる) 一方夕は、育ての母から本当の母親は他にいると聞かされる。俊のお父さんは、「ちゃんとしようと思ってるねん」「ちゃんとするで」と何かにつけ口にする。ケイの件だと思われるが、説明はされない。祭りがやってくる。雨の中で踊る夕と俊、そしてお父さん。夕は俊にお守りを渡す。俊の母が家の中で、みんなに見守られた中で出産する。元気に泣く赤ん坊。俊は涙を流す。
肝心なのは、(ケイがどうなったかの説明は完全に省かれる)の部分である。この映画の中で最も重要なモチーフであるはずの双子の兄の神隠しの顛末、それが見事に、キレイさっぱり省かれている。「見つかった」といいながらその後でケイが一度も登場しないからには、死んで見つかったということだろうが、「ちゃんとする」とはどういうことだろう。
この部分が省かれたことによって、この映画は神隠しという特殊なイベントについてではなく、まわりの人々がその大きな喪失を抱えつつも生きていく姿についての象徴的な、普遍性を帯びた物語になった。赤ん坊の誕生とともに訪れるエンディングが実に美しい。
ちなみに沙羅双樹とはインド原産の常緑樹の名前。白い花を咲かせ、散るときは花びらは散らず花がぽとんと落ちるいさぎよい散り方をする。そのため平家物語では世の無常を象徴する花として登場したらしい。
それにしても、『萌の朱雀』はいつになったらDVDになるんだ?
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