アブソリュート・エゴ・レビュー

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カフカ自撰小品集

2016-04-18 21:51:51 | 
『カフカ自撰小品集』 カフカ   ☆☆☆☆★

 カフカの生前に出版された、カフカ自身で選んだ作品を収めた三冊の作品集『観察』『田舎医者』『断食芸人』を一冊にまとめたもの。というわけで、カフカ自撰小品集である。『変身』や『火夫』は単独発表だし、その他の短篇はカフカの死後マックス・ブロートが遺稿の中から出版したものなので、自撰アンソロジーと銘打てるのはこれで全部ということだろう。

 さすがに、『観察』の収録作は若書きの色が濃い。私たちが持っているカフカのイメージにそぐわないものもあり、全般に断片的だ。抒情的なテキストが多いのも意外である。カフカらしさの萌芽は確かにあちこちに認められるが、それらが後年のような独特の磁力をもって一個の作品に凝固するかわりに、イメージが迸るままバラバラな方向に飛び散っていく印象がある。おそらくは習作的に書かれたものも多いのだろう。異能の言語感覚は明らかだが、まだ方向性を見出していない。

 『田舎医者』になると、一気にカフカらしくなる。代表作「田舎医者」や「家父の心配」、そしてカフカの名刺代わりの如き短篇「掟の門前で」もここに収録されている。こうやって『観察』と並べてみると、一般に言われる「カフカらしさ」が寓話性と強く結びついているのが分かる。少なくとも私はそう感じた。つまり抒情性ではなく、何かしらの形而上学性が作品の核になっている。カフカの作品がすぐに「カフカ神学」のような言われ方をするのもそのせいだ。ただし、その形而上学性とは何かが非常に難しい。難解というより曖昧で、茫洋としていて、掴みがたい。にもかかわらず、それは確かにそこにある。おそらくカフカの形而上学性とは思想の形で抽出してはっきりとしたステートメントにすることができず、小説という形でしか表現しえないものなのだ。

 「家父の心配」に出てくるオドラデクのような不思議なオブジェ(あるいは生物)も、いかにもカフカである。無生物なのか生物なのかも分からず、問いかけると喋るというのがユーモラスだ。単なるイメージの遊びとしてももちろん面白いが、やはりこれも濃厚な寓話性を感じさせる。渋澤龍彦はオドラデクを「物自体」の顕現ではないかと書いていたが、確かにそういいたくなるような根源的なシンボリスムを感じさせる。「ある学会への報告」も、以前は猿だった人間の報告という人を喰ったアイデアで、ばかばかしさときわめて意味ありげな多義性を兼ね備えるというカフカの特性を遺憾なく示している。

 『断食芸人』は「初めての悩み」「小さい女」「断食芸人」「歌姫ヨゼフィーネ、または二十日鼠の一族」の四篇のみからなる作品集だが、これもまた非常に興味深い。いわゆるカフカ的な不条理小説は、ここには含まれていない。どれもある事象についての考察のようなテキストで、「初めての悩み」を除いて、ほとんどプロットらしいプロットもない。あるのは状況と説明、分析である。たとえば「小さい女」はある小さい女(「赤の他人」というだけで主人公との関係は分からない)が「わたし」を嫌っているという状況について、ああでもないこうでもないと微に入り細を穿ち、原因や今後の対応策なとについて神経質に分析し、その結果だんだんナンセンス感が漂ってくるという短篇である。『城』などにもKが下宿から追い出されるシーンなどで女家主の長口舌があるが、あれに近い。考察や分析といってもロジカルに結論が出るのではなく、こう考えるとこう、けれどもそうなるとこう矛盾する、あるいはこういう側面もある、などとどんどん錯綜して、わけわからなくなってくる。結構笑える。

 「断食芸人」はまだ寓話的だが芸人の内面分析部分などは同じだし、「歌姫ヨゼフィーネ」は全篇が考察で、この二十日鼠の歌姫がなぜ人気を博しているのかということをああでもないこうでもないと考える。これは二十日鼠の歌姫というファンタジー的な題材なだけに、「小さい女」より更にわけわからない。ヨゼフィーネは観客に絶大な人気を誇るがその理由はよくわからず、芸術性かというとそうでもない、彼女の歌唱は単なるピューピュー鳴きで、他の誰のピューピュー鳴きとも全然変わらないという。そこから一族の大衆心理を分析したり社会の成り立ちを考えたりし、しまいには一族が彼女に対して父親のような感情を抱いているので批判ができない、ということになり、そう言ったとたんに今度は「ヨゼフィーネの意見は逆なのであって、一族を保護しているのは自分だ、と思っている」と来る。こんな調子で延々続くのである。

 あとがきで訳者の吉田仙太郎はこう書いている。「…『小さい女』や『ヨゼフィーネ』に見られる無窮動のような<言説の方向修正>、あるいは否定とその否定の否定を孕んだ<微調整の系列>に退屈を覚える読者も多いかも知れない…わたしもそうした退屈派の一人である。しかし退屈にはおそらく二種類あって、カフカの<退屈>にはまり込んでしまうと、この関係性の<ゆらぎ>には、人を惹きつけてやまない苦渋の不思議さが秘められているのだとだけは言っておきたい」

 「苦渋の不思議さ」とはまあ、ものは言いようだと思うが、ああでもないこうでもないと細部に拘泥しどんどんナンセンスに近づいていくテキストは滑稽で笑えると同時に、ロジックの転倒や矛盾、もっというと人間の思考回路がもつ根源的な自家撞着性に、カフカが意識的かつ敏感だったことを示すものではないか。カフカの代名詞のように言われる不条理、パラドックスというものもその一つの顕れだし、罰が罪を生む、鳥かごが鳥を探しにいく、といった騙し絵のような論理の転倒もそこから生まれる。そういう意味で、カフカ最後の自撰集に収められた作品のほとんどがこの「考察」タイプというのは、なかなかに興味深い。

 カフカ作品に寓話的な、あるいは物語的な面白さを求めるなら本書だけでは物足りないかも知れないし、実際他にも面白い短篇が色々あるので、そう感じた人は岩波の『カフカ短篇集』などを読んでみるといいと思う。



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