崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

「大学は一般企業ではない」

2013年06月16日 05時16分36秒 | エッセイ
韓国の有名作家の韓勝源氏がまた詩集を出して自宅で朗読会が行われたことを知った。彼は故郷に戻り創作に専念しているということが俗性を払い清聖なる存在に感ずるのは私自身、俗界で煩悩をしている俗物のように感ずるからである。私は反省するところが多くある。特に昨日の本欄で韓国のある大学の大幅リストラの話で心を痛めている。それをテーマにたところ、それについて李スウジン氏が大学は学生を扱っているところ、堀光伸氏は「大学は一般企業ではない」「学究をしている学者の評定を、学問の判る筈もない経営側がするということに、異常さを感じざるを得ません」というコメントをいただいて、考えている。二人のご意見は大学は根本的に商品を扱う企業とは異なるということに触れておられた。その通りではあるが、大学も予備校、塾、専門学校などのように一般社会とかけ離れた象牙塔ではないことを指摘したのである。しかし真面目な教育者、学者には失礼な言葉になったのではないかと思う。多くの方々から誕生日の祝いのことば、中には珍しくメロディが流れる書簡もあって、感謝である。これからは祝福と感謝で生きるべきではないだろうか、自問している。
 以下先日にもふれた「かぞくのくに」を「東洋経済日報」に寄稿したので全文を紹介する。

『かぞくのくに』 崔吉城
 下関海峡映画祭で在日朝鮮人2世のヤン・ヨンヒ監督『かぞくのくに』を鑑賞した。映画鑑賞の会場としてはよくない所で画面は暗く、音声は悪く、椅子は固く、映画鑑賞をしたというより実体験でもしたような気がした。しかしそれがこの映画を観るのに相応しかったようにも思われた。ヤン氏が自身の実体験を基に書きおろしたフィクション映画である。フィクションの形を取ったからこそ真実をリアルに描くことができたのだろう。16歳の息子のソンホが当時祖国は「地上の楽園」と称えられていた北朝鮮へ帰国した物語である。そこで結婚し、子供も生まれ、離れ離れとなって、25年ぶりに病気治療のため再び日本に「一時帰国」し、妹のリエや母ら、家族は歓喜し、暖かく迎え入れた。
 担当医に3か月では治療は不可能と告げられ、滞在延長を申請しようとしたところ、本国から「帰国命令」が出て、結局重い病気のまま帰国せざるを得なかった。妹のリエは限られた「面会時間」のような制限時間の中でおしゃべりをして楽しんだが、別れる場面は私には感動というよりは辛かった。それはフィクションであろうと思ったが、佐高信氏との対談集『北朝鮮で兄は死んだ』(七つ森書館)でヤン・ヨンヒ監督はその「兄は死んだ」と事実を語った。北朝鮮への入国が禁止されて、兄の墓参りにも行けない。腹立たしさを越えて無念としかいいようがないと。
 「一時帰国」した息子をなぜ返させなければなかったか。日本では北朝鮮から「一時帰国」してきて帰らなかった例もあり、帰国させなくてもよいのではないかと私は思った。「お兄ちゃんたちは何であんな遠い所に行ったんだろう?そこはどんな国なんだろう?」という問いかけは重い。私の日本への移住を含めて、人の移動は意思の有無に関わらず運命的なことであろう。それに逆らおうとしてもしょうがない。人はその時最善の道を選んだに違いない。満州や沿海州、樺太へ、そして戦後帰国した人、しなかった人、その人の運は時代によって異なる。一回の判断によって天と地の差の結果になることは運命としか言いようがない。
 「そこはどんな国であろうか」。日本のマスメディアがリピーター資料画面で拉致国と貧国のイメージの壁を高く作っているのでその社会や文化を正しく理解することができない。私は訪朝して少し太った子供の顔を見て安心した覚えがある。それは死にかかっている子供ばかりの日本の映像とは異なったからである。ヤン氏はそこにも恋愛も離婚もあり、笑いと涙もある一般社会であることを普通に伝えようとしたという。「一つの物語、誰の身の上にも起きる、誰の心にも通じるようなものをつくりたい」と。
 私はピョンヤンで日常生活、街並み、博物館、劇場、本屋など視野に入るものを多く撮った。全部没収されるだろうと言った人がいたが私は全部無事に持ち帰った。

 


「不要」な人物

2013年06月15日 04時57分36秒 | エッセイ
 韓国のある大学の大幅リストラの話である。この夏休みが教職全員が辞職するような形であり、改めて採用通知が届いた人だけ来学期から出勤するようにということである。その優先順位は大学にとって「人宝」「人財」「不要」と分別されるという。つまり大学への貢献度によって客観的な基準でリストラを大胆に行うという話である。経営者の強い意志により大学が生き残るための対策と思うが憂いも多い。まず能力主義が正しく評価されるだろうか、つまりネポティズム(親戚びいき)などが作用するのではないか。それより大きい問題は構成員にとって職場は共同体であるという一体感を壊すのではないか。特に「不要」な人物への対応が問題であろう。不要な人でも投票権を持っている国家の例を考えると「不要」だという判断さえし難い。
 どの企業にも「不要」な人物は存在する。経営者側から見て、協力しない人、反対する人、無能力者などがいるはずである。リストラはその人を追い出すか疎外するかの対策とされている。まず経営者や企業家はこの不要的な人物に講習を受けさせたり賞罰などによって「要」「用」なる人になるように努力すべきであろう。経営者はこのような不要をどう思うのか。格差社会への批判はただ「不要」な人を「楽」にさせることを意味するのではない。「不要」な人を「要、用」へと変える、また変わる努力をする意味を持つのである。

『ウリ韓国史』

2013年06月14日 03時22分31秒 | エッセイ
 日韓の政治家から「歴史問題は学者へ」という言葉をしばしば耳にすることには以前にも触れたが、学者たちの民族意識、国家意識によって歪んだ歴史観はなかなか変わらない。私は客観的な立場から認識すべきだと一貫して主張してきた。今は多くの人からセマウル運動が肯定的に評価されるが、私は当時セマウル運動に批判的であった。しかし日本留学から帰国して啓明大学に赴任して間もない1980年12月1-6日に第69期セマウル指導者教育を受けなければならなかった。私は6班、大統領警護室の警護官、新聞社社長、牧師、教授ら16名と訓練や研修を受け、分任討議長も務めた。その報告書には80年代韓国は家庭から先進国へ入るために努力しなければならないと書いた。この教育を受けて私はかなり否定的な態度からやや肯定的に変わったようである。
 後にセマウルに関する幾つかの文を書いた。拙稿の「セマウル運動と農村振興運動」はセマウル運動が植民地期において行われた農村振興運動、それを遡ると日本の地方改良、地方更生運動に似ていることを指摘した論文である。それが韓国で学者や評論家によって引用されるようになって嬉しい。ネット上でも数人の論文と評論を見つけたが、具体的な内容はまだ分からない。金ダンテック氏の著書である『わが韓国史(우리 한국사)』に引用されているが、まだ本文は確認していない。序文によると李基白氏の『韓国史新論』を継承するという。序文には

 「本書では民族の優秀性や光栄を表すために努力はしていなかった。民族情を前提にすることは正しい歴史理解の妨げになるのみならず、北朝鮮が主張するような朝鮮民族第一主義からみられるように民族を幸福にするより不幸に落とすのに利用される場合が多いと思うからである。」(拙訳)

 これを読んで私は国粋主義者たちだと思っていた韓国の「国学」者がここまで書いたことに感動した。さらに拙稿が引用されたことは光栄だと思う。時代が流れ、人の考え方も変わるのである。

 

韓国からお客82名を港で迎え

2013年06月13日 02時21分00秒 | エッセイ
下関港に出迎えるのが一つ慣れになっている。昨日、港に到着したのは朝の7時40分、既に客が下船して出始めていた。普通8時から下船し、団体客が出るのはそれから1時間ほどかかるのが常であったが、多少早くなったようであった。関釜フェリーは早く到着しても入管や税関の担当者たちの出勤を待ってその時間に下船するようになっている。このフェリーではお客さんに「長く待たせる」、つまりお客さんを中心としていないことが最大の問題点であろう。お客さんを船中に長く拘束することは「退屈さ」を持たせることであり、現代のような時代に顧客サービスの最大の欠点であることを考えてほしい。100年以上の歴史を自慢しながらこのような問題点を改善しないのはなぜであろうか。
 人流は飛行機に奪われても大量の物流は船である。しかも最近は円安でまたお客さんが増えつつあるようであり、昨日も団体客が多く感じた。私は鵜澤副学長と一緒に韓国から東亜大学へ来られる82名の中高校生団体を迎えに行った。待合室半分弱を埋め尽くした雰囲気、日本到着の記念写真を撮った。これから多くのスナップ写真で記録される思い出、楽しい日程であろう。
 私は東アジア文化研究所で「朝鮮」の読書会、稲の品種改良により朝鮮が日本化していくことを読んだ。新しいメンバーとして田邉正樹氏が加わった。彼は予備校の先生でありながら各種の社会運動を行っている方である。倫理法人会の下関事務局の方であり、郷土史家として活躍の業績をお持ちの方であり、これからそれを踏まえた彼の意見が聞けるのが楽しみである。研究所はこれからこの読書会以外にも「絹代塾」「楽しい韓国文化論」「下関映画祭」、大学40周年記念行事などと関わって活動を本格的に稼働することとなる。ただ大学生に参加してもらえるかが私の関心の焦点であり、疑問である。参加は「強制動員」ではなく、教育のチャンスとして、お互いに受け止めてほしい。必要に応じて強制と半強制、自由参加の教育のチャンスの多様性をキャンパスに吹き入れたい。 

「中心人物養成」

2013年06月12日 03時17分25秒 | エッセイ
いろいろな学内外、国内外の行事を準備するところに参加するごとにキーパーソンを誰にするかを考える。その人は学識や人脈を持っている人を意味する。昨日は私が信頼する友人の同僚に大きい行事を担当するコーディネーターとして依頼することにした。行事を成功させるためにはこのような人の選定が重要である。キーパーソンとかコーディネーターかは時代によって名称が変わる。コーディネーターとは古い言葉では中心人物といえる。戦前大日本帝国において盛んに行われた「地方改良」「地方振興」の運動では「中心人物」と呼んでいた。昨日は1930年代の宇垣一成総督の「地方振興」に関する「中心人物養成」に関する資料を読んだ。その「中心人物」は今の言葉でいうならキーパーソンkey personである。
 「中心人物養成」とはある一定期間に集中的に訓練教育することをいう。古くは慶応塾、近くは松下塾とかがその成功例であろう。私は今小さい塾の塾長を務めているが、その志は大きい。しかし私はセマウル運動が盛んな時、その養成訓練を受けた者であるが(写真)、当時かなり批判的であったことを思いだす。それは開発独裁の見せかけの政策と思ったからであった。今それを反省している。塾は練習と訓練であり、決して見せかけの行事を狙ってはいけない、信念によるものでなければならないとと思っている。それによって育つ人物が長い後にでも「中心人物」になればよいという信念である。その内部の修養的なものが外向けの宣伝行事になってもよい。それは情報提供であり、文化を共有することである。
 

市民講座のお知らせ

2013年06月10日 21時47分54秒 | エッセイ
2013年6月7日
各  位                          絹代塾 塾長 崔吉城
下関市彦島江の浦町6丁目1-12
 ℡・fax 083-267-2660
「絹代塾Vol.21」のご案内

 梅雨の季節、皆様におかれましては、ますますご健勝のこととお慶び申し上げます。
次回の「絹代塾」は、当協会理事長でもある平井愛山氏に、健康問題を講演していただきます。
いつも全国をみすえた地域医療改革のため活動なさっていますが、今回はじめて専門分野のお話を、田中絹代主演『楢山節考』を参考にして講演いただきます。これからの高齢化社会での医療と介護の問題を、家族の問題として考えてみたいと思います。
皆様お誘い併せの上、ご参加下さいますよう、よろしくお願いいたします。
*木下惠介生誕100年を記念して作られた映画『はじまりの道』の全国共通券を1,000円で販売しています。ご希望の方は、連絡処(090-9731-8969河波 )
  ~記~
「家族ぐるみで支える高齢化社会-糖尿病を中心に」
講 師: 千葉県立病院院長 平井愛山
上映作品:『楢山節考』昭和33年 監督/木下惠介  出演/田中絹代、高橋貞二
日 時:2013年6月29日(土曜日)  14:00~16:30
場 所:東亜大学13号館2階

   受講料:500円
主 催:NPO法人田中絹代メモリアル協会/共催:東亜大学東アジア文化研究所
                       しものせき映画祭実行委員会

【講師プロフィール】 1975年 千葉大学医学部卒、1996年 千葉大学医学部内科学医局長、1998年 千葉県立東金病院院長に就任 2000年「健康ちば21」策定専門委員会委員長、内閣官房「高度情報通信高度情報通信ネットワーク社会推進戦略本部」IT 新改革戦略評価専門調査会医療評価委員会委員を始め、医療IT政策関係の委員を歴任、2001年から電子カルテ網で病院・診療所・保険調剤薬局をつなぐ「わかしお医療ネットワーク」を運用開始し、「病院完結型医療から地域完結型医療へ」の転換を推進し、現在は糖尿病の重症化予防の最先端プログラ“TOGANE”を全国に展開している
代表著書に『地域医療を守れ』(岩波書店刊) 日本内分泌学会内分泌代謝科専門医・指導医

今後の予定
回 年 月 日 タイトル 講師 映像
22 2013 7 13 『スターウォーズ』異説 東眞義 『スターウォーズ』
23 9 14 古代アンデス文明の発達-中米の文化 鵜澤和宏 『母のミルク』
24 12 14 ドキュメンタリー制作     権藤博志   自作の作品


「覚めよ」

2013年06月10日 05時47分17秒 | エッセイ
 私が朝、早起きだと聞いた人からモーニングセミナーの講師に誘われた。話題は政治と宗教の話し以外はOKという。倫理研究所の倫理法人会の集いだという。初耳で「全国に広がる心のネットワーク」「朝を活かす企業が勝つ!」という標語に魅かれた。研究所は1945年、法人会は1980年に創立した歴史古い社会運動の団体である。会員は主に企業の社長や幹部級の方々だという。「倫理」というので宗教っぽくすぐ新宗教の教団ではないかと連想したが宗教の話はタブーというのも面白い。
 モーニングセミナーと聞いて、私はすぐセマウル運動を連想した。日露戦争直後から起きた地方改良運動、それが農村更生運動へ、またそれが植民地を含む大日本帝国に実施されたもの、朝鮮総督府の宇垣総督によって「農村振興運動」へと展開されてきたが、南総督に代わって「心田改良」皇民化運動に消えていったものである。しかし1960、70年代韓国の朴大統領がそれをセマウル運動として成功させた、私はそれを調査研究した。その話をしようかと思っている。写真は1972年5月6日「東亜日報」に私がセマウル運動の迷信打破について調査したことが報道されている。
 人口が減っていく、廃れていく話ばかりの話題からこのような組織が動いているということを聞いて街が生きていると感じた。個人が孤立化、孤独化している現代都市社会に「覚めよ」と言いたい
 

真実と記憶の攻めぎ合いの教訓

2013年06月09日 03時55分46秒 | エッセイ
数年前この本の日本語翻訳出版のために鄭大均氏と相談し、ある有名出版社が相談に応じてくれたが上手くいかなかった。しかし、今度ハート出版から出版されることになった。『竹林はるか遠く―日本人少女ヨーコの戦争体験記』がアマゾンの1位になっていると友人の鄭氏から朗報(続報)が入った。私はアメリカボストン近郊に在住の著者と通話しながら写真を提供するなどして進めていて、発行日を待ち望んでいるのに販売予約で読者から注文が殺到しているようであり、嬉しい。私はこの本が終戦直後の引揚ノンフィクション文学として注目した。しかしその著者が韓国系アメリカ人たちからバッシングを受け、また韓国のマスメディアから著者の父が731部隊の生体実験者だなど事実ではない言葉で侮辱的に扱われた。当時私はアメリカの自宅で彼女に会って事情を聞き、彼女への非難はただの誤解や反日感情によるものと分かった。それで日本での出版を勧めたのである。今度ハート出版の正しい判断によって出版されることになった。時勢の世論などは力を持っているが、必ずしも正しいものではないことが多い。私は世論を「信じない信念」を持っている。非難する人へ一讀を勧めたい。
 6月25日は朝鮮戦争勃発記念日であり、それと関連して私が戦争を語る。私は38度線近く、臨津江と板門店の東、苦戦場の三角地帯の南、米軍キャンプで有名な東豆川の横の小さい村で生まれた。そこで体験した朝鮮戦争の話である。小さい村が戦争で変わっていくことを出来れば記憶に沿って丁寧に、ただ反戦主義や好戦的にならないように語るつもりである。明るい話ではないが、半世紀の間に私のその記憶の持ち方、語り方の変化と、生き方を語ることになろう。既に多くは著書などで触れたことはあるが証言としては初めてのことである。
 人はそれぞれ辛い経験や記憶を持っているはずである。それを繰り返して語ることで話が上手くなり、ストーリーテーラーのようになっている人も多いだろう。記憶の本質は変わらなくとも薄れていくか、フィクションとされていくかも知れない。私も自分の生きていく過程で記憶の解釈が代わりつつ、生きる力にもなっていることに気が付く。真実と記憶の攻めぎ合いのところの教訓であろう。
 以下主催側のお知らせである。

<公開市民学習会>「朝鮮戦争と私」崔吉城先生に聴いてみよう
朝鮮戦争(1950年6月~1953年7月)は未だに終わっていません。休戦協定が結ばれて60周年を迎えますが,朝鮮半島にはかつてない緊張が高まっています。
私たちは朝鮮半島の平和を望んでいますが、その朝鮮戦争がいかなる戦争であったのか、当時、小さな子どもであった崔吉城先生を囲んで、その体験談を、そしてこれからどうあるべきなのか、お話を聴くことにしました。ふるってご参加ください。

6月22日(土)14:00~16:00
東亜大学東アジア文化研究所
参加費 500円
主催:東亜大学東アジア研究所・日本とコリアを結ぶ会(代表 鍬野保雄)
問合せ先 :090-4898-0128

教養が人の人格

2013年06月08日 02時57分28秒 | エッセイ
写真は二宮金次郎像


 先日行われた「日韓平和コンサート:福島の子どものために」の会計が終わり純収益金45万円を韓国へ送ることが出来た。私は実行委員会を解散するにあたって実行委員長として皆さまのご協力に心から感謝を表したい。このたびのコンサートで意外に思ったことが二つある。一つは東日本大震災の被災地・福島の子どもたち15人を招き、8月にソウルなどで開催する予定の韓国ヒーリングキャンプの資金を集める募金箱に多くの方が協力してくれたことである。その報告を聞いて私は思わず「日本人は偉い」と叫んだ。ほんとうに心から感謝すべきことである。もう一つはチャリティショーとして使用させていただいた大学施設の会場費が思いのほか高かったことである。日本ではサービスは無料であることが多いが、有料でもボランティアの部分が含まれていたのだろう。
 さらに実行委員たちから意外なことばが出た。大学で行っても大学生の参加がほぼなかったことの指摘である。「大学は勉強や研究するところ」と思っているが何故関心がないのかと思うのであろう。それは本欄でも以前触れたように、大学ではいろいろな公開講座を行っても学生の参加は少ないということである。学生は登録した講義ではないから参加しないという仕組みになっているからである。昔、私の学生時代を振り返ってみるとさまざまなコンサートや講演会などに参加してからキャンパスのベンチに座って考えたり、それをテーマに語り合ったりした。今思うとロマンティックな風景であったがそれは今は既になくなり、変わったのである。大学は長い間、学科別の専門化してきており、学生はそれぞれ登録した授業に参加するだけであり、まるで予備校の授業の延長のように考えていて、教養を共にする大学生としてアイデンティティが弱く、自分の日程表に学校では授業以外のことは入れていないからであろう。講演会などへの参加は退職してから暇な人のすることと思っているのかもしれない。教養が人の人格、国家の品格であることを知らない教育の現場にいるような寂しさを感じている。
 

勤勉な日本人を取り戻せ

2013年06月07日 04時21分36秒 | エッセイ
最近授業準備を長くして実際の授業はシンプルになりやや困っているが、面白くなって公開したいと自評する。まず出席をとって学生の顔と名前を覚え、感想文に私からのコメント、出席状況を話すこともある。先週の学生からの授業感想に関しては個人的なものと全体的なものにコメントし、リマインドさせなから当日の授業のテーマに導入する。その時はパワーポイントで問題点を提示する。昨日の2年生の講義は「食と観光」であり、食品、料理、食事に関するものであった。「食品」では、韓国では食べるのに日本では食べないものをみんなで考えた。チナムル、蔓人参、オオバコ、ニンニクの茎などは韓国では好んで食べるが、ジュンサイ、ゴーヤ、ミョウガ、オクラなどは食べない 。その都度渡辺君がネット上から写真を映しだしてくれて分りやすかった。ヘビはベトナムでは食用にするが韓国、日本では食べない、中国ではメニューが幅広く食品も多様であることが話題になった。犬肉は中国、特に朝鮮族、韓国で食用とする。「調理・料理」では中国は炒め物、日韓では煮る、西洋では焼くなどが特徴であること。「食事」では箸と匙の有無、誰と一緒に食べるかなどが4カ国の学生と話し合った。(写真、2012年10月シアトル行きのKAL機内食)
 食文化が外食へ、観光化していくという趣旨に至るのであるが、その続きは次の時間になる。留学生が混ざると講義の質が落ちるという教員がいるが、多様な文化へ視野を広げるのは得である。
 少子化に伴い、経営者は小人数講義が多くなった時代に合わせて教室構造を変えるべきである。固定椅子を移動式に、黒板とスクリーンを同時に利用する。つまり映した画像に板書ができるように工夫すべきである。少子化教育に問題を抱えている大学の悩みは共通しているだろう。仕事を「ご苦労さま」と挨拶をする日本。韓国語ではわざわざ「苦労を買う(사서 고생한다)」と表現するが、その苦労は「楽しみ」であるようにすべきである。勤勉な日本人を取り戻してほしい。

「明太子の発祥地は?」 

2013年06月06日 04時55分08秒 | エッセイ
今年度の東アジア文化研究所主催の「楽しい韓国文化論」の構想が決まった。テーマは食文化である。全7回の講座と1回の韓国旅行で現地で韓国の食を味わうことを日韓親善協会と共催で行うことにした。最初のオープニングは「明太子の発祥地は?」というタイトルに決めた。講師は久間直樹氏(写真左から2番目)、彼は北九州のRKBテレビ支社報道部長であり、韓国に2年半も滞在したアジア担当者であり、明太子発祥に関する番組も制作した人であり、彼の映像と解説を依頼した。昨日私の研究室で行う読書会に久間氏が同報道部の女子リポーターの橋本氏が来られて参加してくださった。久間氏は1995年朝鮮総督府撤去の現場で撮影して報道した人であり、『朝鮮の風水』の話題を出したのに、私は失礼にもその話を最後まで聞く間もなく、私が翻訳者であるところに話を持っていってしまった。今思うと私はスピーチの一ポイントのリスニング(聞く)の違反であった。また読書会で「朝鮮」から農村振興に関する資料を紹介した。朴大統領のセマウル運動の起源を探る私の研究の一環でもあった。これも聞きに来たとはいっても一方的な話で失礼をしたのではないかと反省している。
 若い時に感じた老人の一方的な話方に、自分は老人になってはそうしてはいけないと思っていたのに、その戒めの一号というべきことであった。来週「朝鮮戦争を語る」予定をしている。私が経験した朝鮮戦争そのものやその過去を老人のつぶやきのように語ってはいけない。ビアスが南北戦争をテーマにしても戦争を語るのではなく、戦争から人間を小説にしたのを考える。小さいわが村が戦争で伝統文化が破壊されていったことを主に語りたい。そして戦争論、慰安婦の問題にも根本的なことを考えてみたい。悲惨な状況を生きている人々、その村が存続しているので将来フィクションにして真実を明らかにしたい。この話はまた聞き上手な人に話したい。1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争を6月に語るには心痛く、そっと語るように話したい。

註:アンブローズ・ギンネット・ビアス(Ambrose Gwinnett Bierce, 1842年6月24日 - ?)は、アメリカの作家、ジャーナリスト、コラムニスト。代表的な著作に、風刺辞書『悪魔の辞典』、短編小説「アウル・クリーク橋の一事件」がある。人間の本質を冷笑をもって見据え、容赦ない毒舌をふるったことから、「辛辣なビアス 」と渾名された。

赤江瀑

2013年06月05日 04時59分31秒 | エッセイ
 昨日下関市立美術館で下関出身作家の赤江瀑(泉鏡花文学賞)さんの一周忌記念展覧会『赤江瀑:美の世界』展の初日の午後観覧した。東亜大学で所蔵品を整理しておられた浅井仁志氏もおられて、実行委員の一人である吉岡一生氏が受け付けをされていた。展示会の初日は好調であるというが、私ども夫婦を含めて3組、観客は少ない。万年筆で書いた原稿紙が展示されて、今はやや古い世代の作家であると感じた。偶然にもその場の観客は皆知り合いだった、吉岡氏が私ども夫婦の観覧記念写真のカメラシャッターを押してくれた。
 広く知られている人でありながら出身地、地元に生まれ住んで死んでも下関の人にはそれほど知られていないような作家であろうか。地元に住んで他人のような存在、しかし、舞台は広く活躍した人であるようである。下関の本屋でも彼の本はおいておらず、博物館のショップでも彼の本を買うことは出来なかった。多作の作家の作品がたった一周忌の展覧会で買える本が全くないということはどういうことだろう。彼は未婚、子孫もなく、全国的に活躍した作家なのに地元からの受けのない人であったのだろうか。彼の印税相続人も友人になっているという。
 彼の人生をみて、孤独な、寂しさを感じざるを得ない。しかし出家した聖なる存在感も感ずる。俗世の生き方をせず世俗を冷徹に書いた気がする。彼の作品と人格が復活して生き返るかも知れない。彼は良い作品は必ず残ると思ったであろう。どのように人に記憶されているか、まず作品を読んでみたい。            

風呂の中で若い女性

2013年06月04日 05時18分54秒 | エッセイ
 昨日下関のロータリークラプの月例会が東亜大学で行われ、そのメンバーが東アジア文化研究所を訪づれることになった。朝から掃除と整備をして待っていた。三十数名の方々がニ回に分かれて訪問して下さった。どんな印象を受けられたのだろうか。市民にオープンしているのかなどの質問があり、知らなかったと言われた。私は写真を撮るつもりでスマーフォンカメラを手にしていたのに撮ることを忘れてしまって残念であった。突然の訪問者にあわてて掃除や整備をし、お客さんを迎えることは家庭でも多くあることである。それは醜い自分をそのままみせたくないこともあるが、見せかけのためだけではない。相手を尊重する心使いという意味が大きい。大げさにいうと聖書には「新婦が新郎を迎えるように」と、その心構えを教えくれる。
 午後福祉施設の一つである満珠莊のお風呂で初めて憩いの時間を持った。客は数人だけで、関門大橋の眺めの絶景、完璧に掃除、整備されている。男性の風呂の中ほどまで若い女性職員が入って片づけたり挨拶をしたりした。40年ほど前の留学時の大衆浴場の光景の驚きを思い出した。家でも裸になることはないが、私は日本文化に慣れたのか、風呂の中で若い女性に会っても平気だった。これはどんな意味?老人となったせい?…。話を聞いてみると客が少ない時に特に高齢の方の滑り事故などの防止に心掛けているという。よい建物の施設だと思ったが、その上に良い心遣いを持っている施設だと思った。贅沢な施設に客が少ないので営業を心配する人もいるだろうが、日本の老人は幸せであろうと思った。

「大和魂」と「汚れた心」

2013年06月03日 04時26分16秒 | エッセイ
 昨日の朝、ある研究誌への巻頭文の原稿を送り、教会で礼拝し、電子商へ、そして田中絹代文化館で木下恵介の「陸軍」関係資料展を観て、海峡映画祭の映画鑑賞と井上順のトークショーも少しのぞいて帰宅した時はすでに夜になっていた。普段とは違って映画館には観客が多かった。充実した一日であって 、自ら下関の市民となった気がした。
 映写室では友人の権藤博志氏がフィルムをまわし、作家の古川薫氏も映画「汚れた心」を鑑賞されておられた。ブラジルに移民した人たちの間で「大和魂」を持った「ほんとうの日本人」が「汚れた心」の人を殺すという悲惨な状況が映されている。第2次世界大戦の終戦期に実際に起こったことを映画化したものである。ビセンテ・アモリン監督で奥田瑛二ら日本人俳優が出演する。ブラジルに住む日系人たちは戦争は日本の勝利で終わったと信じきっていた。元帝国陸軍の在郷軍人ワタナベ(奥田)らは日本が降伏したことを受け入れず、その事実を受け入れる者たちを殺す。それに賛同した写真館の店主タカハシは刺客になって同胞を殺して生き残っている。まず私が関心を持って著した『樺太朝鮮人の悲劇』の終戦時サハリンでの事件を思い出す。森下らの在郷軍人たちが朝鮮人をスパイとして同じ村に住む隣人の朝鮮人を27人も殺した事件と同じ脈絡で見た。
 この映画の二つの実話はロシアとブラジルの遠いところの昔あった話だろうか。否、私は今の日本の中の話として受け止めるべきであると思う。「大和魂」と「汚れた心」の対立はいまだに日本に存在している。「ほんとうの日本人(大和魂)」がそうではない人、つまり「汚れた心の人」を殺したい敵対心を持っている人はいないだろうか。否、世界に通じる普遍的な話であろう。生き方を考えさせられる映画である。

『かぞくのくに』

2013年06月02日 03時58分10秒 | エッセイ
しものせき海峡映画祭で在日朝鮮人2世のヤン・ヨンヒ監督『かぞくのくに』を鑑賞した。画面は暗く、音声は悪く、椅子は固く、映画鑑賞より実体験でもしたような気がした。しかしそれがこの映画を観るに効果があったようである。ヤン氏が自身の実体験を基に書き起こしたフィクション映画である。総連の重役を務める父の勧めに従い、当時「理想郷」と称えられていた北朝鮮へ、当時16歳の息子のソンホを祖国北朝鮮へ帰国させた。そこで結婚し子供も生まれたが、離れ離れとなって、25年ぶりに病気治療のために日本に「一時帰国」、3ヶ月の期間限定で日本滞在が許された。再会に妹のリエや母ら、家族は歓喜し、暖かく迎え入れた。朝鮮本国より突然の帰国命令により別れて帰国する。「一時帰国」して帰らなかった拉致家族のことを考えながら私は息子を日本に永住帰国させるのか、関心を集中した。しかし北朝鮮、総連のような異様な社会への帰国の別れシーン、涙を汲むほど感動した。危険な病気を持っている息子を返させなければない「人権」と「一時帰国」の意味は何だろう。
 続いて下関シーモールのオープンフロアで行われた山口新聞の佐々木正一氏の司会で佐々部清監督と古川薫氏のトークショーを聞いた。小説と映画の関係に焦点があった。佐々部氏は小説を読み、脚本を描いて映画を作るのに反して古川氏は映画を見ながら創作する話がドッキングする。古川氏は先週、私と対談した文学の本質論の「余談」のような面白さがあった。高齢者のための洒落た帽子を買いに福岡まで行かなければならなかったことを含め、高齢者には医療福祉の話だけではなく老人文化に関心が薄いという指摘はまさにその通りである。彼の考え方にはところどころ若さがキラキラ輝くようであった。3人ともベテランのトークショーであり、適度なところに拍手が出た。百貨店の顧客から見られるオープンフロアは学識高い商場になった感がした。終って佐々部氏に初めてお会いし、ごあいさつができた。