崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

教養が人の人格

2013年06月08日 02時57分28秒 | エッセイ
写真は二宮金次郎像


 先日行われた「日韓平和コンサート:福島の子どものために」の会計が終わり純収益金45万円を韓国へ送ることが出来た。私は実行委員会を解散するにあたって実行委員長として皆さまのご協力に心から感謝を表したい。このたびのコンサートで意外に思ったことが二つある。一つは東日本大震災の被災地・福島の子どもたち15人を招き、8月にソウルなどで開催する予定の韓国ヒーリングキャンプの資金を集める募金箱に多くの方が協力してくれたことである。その報告を聞いて私は思わず「日本人は偉い」と叫んだ。ほんとうに心から感謝すべきことである。もう一つはチャリティショーとして使用させていただいた大学施設の会場費が思いのほか高かったことである。日本ではサービスは無料であることが多いが、有料でもボランティアの部分が含まれていたのだろう。
 さらに実行委員たちから意外なことばが出た。大学で行っても大学生の参加がほぼなかったことの指摘である。「大学は勉強や研究するところ」と思っているが何故関心がないのかと思うのであろう。それは本欄でも以前触れたように、大学ではいろいろな公開講座を行っても学生の参加は少ないということである。学生は登録した講義ではないから参加しないという仕組みになっているからである。昔、私の学生時代を振り返ってみるとさまざまなコンサートや講演会などに参加してからキャンパスのベンチに座って考えたり、それをテーマに語り合ったりした。今思うとロマンティックな風景であったがそれは今は既になくなり、変わったのである。大学は長い間、学科別の専門化してきており、学生はそれぞれ登録した授業に参加するだけであり、まるで予備校の授業の延長のように考えていて、教養を共にする大学生としてアイデンティティが弱く、自分の日程表に学校では授業以外のことは入れていないからであろう。講演会などへの参加は退職してから暇な人のすることと思っているのかもしれない。教養が人の人格、国家の品格であることを知らない教育の現場にいるような寂しさを感じている。