崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

回想と忘却

2013年03月11日 05時36分00秒 | エッセイ
今日は東日本大震災2年になる日である。昨日は日韓合同礼拝で木村公一牧師は忘却の意味について説教をした。イエスが最後の晩餐で「私を記念に」(「コリント人へ手紙」一の11章5節)と言った意味を深く掘り下げた。牧師は大震災の忘却するか記念するかという、震災に対する難しい気持ちを聖書に基づいて語った。私は礼拝に行く直前までに今週発行の新聞コラムに「奇跡の一本松」について同じ趣旨の原稿を書いたので良い説教として聞くことが出来た。そのメッセージは広島・長崎の核問題、朝鮮半島、沖縄、靖国などへ延々と繰り返し、1時間近く続いた。3,4回分の説教のように思った。そして彼がまた続いて1時間半の講演をすることになっていた。
 「日韓合同礼拝」の交わりの意味はあったのだろうか。牧師は説教後に信者や「客」には顔を向けず別室に移りドアを閉めて座っていた。個性の固いパーソナリティなのだろうか。それはそれで良い。しかしキリスト教を地の端まで伝道する職務は果たせないだろう。韓国のキリスト教が急成長したのはただ、偶然に出来たものではない。韓国の牧師や宣教師に学ぶところは人に「説教せず」、「しもべ」になる姿勢であろう。