崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

対馬の文化財

2013年03月16日 04時49分06秒 | エッセイ
 TPP参加をめぐって多くの議論が行われた。その過程でよくつかわれる言葉や概念は「国益」national interestであった。人類と世界の平和を叫んだ人も国益を優先することには反対する人は少ないだろう。一昔前までの「愛国」という言葉の代わりの「国益」であろう。愛国や国益のためといえば全ての倫理を越えて通じると言える。アメリカが中華民国(台湾)との関係を切って中華人民共和国(中国)と国交正常化へ、後に日本、韓国もそのようにした時、私は普通の人間関係でも裏切りという非倫理的なことが国益を最高値において国際関係では平気で出来る、その国際政治に多いに失望したことを覚えている。
 今韓国人が対馬の文化財を盗んで韓国に持って行き、「韓国製だから」と云々弁明しているのは恥ずかしい。将来メードインジャパン、メードインコリアの商品はどうなるだろう。幼稚な知識さえ国家の名前を借りて正当化しようとする。それだけではない。国交正常化のために北朝鮮へ行って首脳会談をして戻って「拉致国家」云々といいながら敵対しても国民は異様なことに気がつかない。国家には倫理より国益が優先されているからであろう。国益の拡散のために、世界化、国際化は飾り言葉にすぎない。国益のために盗んでも、戦争をしても、正当化された、そんな歴史は単なる過去の古い歴史ではない。いま生き続けていることを認識すべきである。
 


秋吉久美子氏

2013年03月15日 04時50分12秒 | エッセイ
 今朝のNHKラジオ深夜便で女優の秋吉久美子氏の話が流れた(再放送)。その話の中の二つの言葉で耳を傾けた。一つは俳優になろうとしたきっかけについての質問にしばらく間をおいてから「受験勉強が嫌だったから」であり、もう一つは「田中絹代の役を演じてみたい」という言葉である。皆が受験勉強が嫌だから入った道が大成功になるとすれば学校制度の教育は存在しないだろう。そして今の私の存在もないだろう。私は受験勉強が嫌な学生の前では「試験」という言葉を極力控えている。しかし秋吉久美子氏は受験勉強を避けてもそれ以上の勉強、師弟関係を求めて頑張っていたことが指摘できる。今の教育制度の受験勉強のパラダイムを変えて多様化すべきであろう。
 また女優田中絹代(1909~77)を演ずるということはどういうことだろう。秋吉久美子氏(写真栗橋隆悦)が絹代を演ずるということは絹代をそのまま真似するのではなく、吸収して自分を表現するということである。「田中さんの生涯を演じてから、芸能界にいるのが楽になった」と言う。何と偉大な人生語りであろうか。彼女の生き方から大きいメッセージを受け取ることが出来る。われわれは祖先たちが平凡に生きたことをただ同じように繰り返しているようであるが、そいうわけではない。親や先生などをただ真似する訳ではない。ただ繰り返すようであり、実は自分を創造しながら生きているのである。
 来週3月20日には田中絹代の墓参りを予定している。墓の前で自然体で田中絹代との対話を準備する気持ちである。

「送別がすなわち派遣」

2013年03月14日 04時48分59秒 | エッセイ
下関にて5年間勤務し転出する方の招待に便乗させていただき昼食を共にしながら歓談をした。それは世俗的な別れの形式的なものではない。彼の人徳や人脈は広く深く多くの業績を残して行かれる。彼と数多く関わったこと、出会いから別れまでの話し、人情のある付き合いの5年間の回想であった。同席した二人の彼の同僚の方々も忙しい中の一時であった。私は彼らの書いたものを読んでいるのでそれを話題にしようかと思っていたら逆に彼らが私のブログの読者であり、靴を抜いて置く向きの話や徴兵制度の話などが話題になって私が中心になったようであった。帰宅して我が家で一人のお客さまを迎えたが、彼女もまた私のブログやFBの内容を話題にした。今日お会いした人とは文通や対面などを通して、二重三重の人間関係が重なり、人情が深まるようであった。
 今月はまだまだ転出、卒業、定年などの話が続くであろう。私も多くの送別会や歓迎式を受けながら転々としてここまで来ている。別れても、離れてもインターネットやグローバルな意識においてはそれが無意味に感ずる時代になっている。むしろ別れがもう一つの連結の鎖であると考えるべきであろう。何処までも愛情の杖、網、鎖を投げながら生きる時代であることを嬉しく思う。いま私は南アフリカで難民キャンプの中で宣教するPeter Han牧師が私をそこへ案内してくれたことを思いFBで繋がっている。「送別がすなわち派遣」と思うと言いながら彼にサヨナラと手を振って別れた時はやはり寂しかった。

「韓国の徴兵制度が羨ましい」

2013年03月13日 05時38分57秒 | エッセイ
 昨日韓国へ旅行してきた日本人の友人と朝鮮半島の緊張関係について話をした。韓国の先生たちが徴兵制度があるから韓国の男は逞しい、「根性がある」と誇ったという。が、日本の男にはそれがないと言われたという。韓国では戦前から徴兵制度をもっており韓国人にはそれが定着しているようである。日本人からは「韓国の徴兵制度が羨ましい」と言われる事があるが、考えて直してほしい。私の母は私が成長する前に兵役制が無くなることを願っていたが私が成長するにつれて不安を強めていた。結局私は戦争中ではなかったが辛い、厳しい訓練を受けて将校になった。私は軍隊とは国民を守る国家の命の保険機構のような存在であると陸軍士官学校の生徒に教えたことを想起する。青瓦台事件の時は戦争へ出動待機の緊張感を味わった。
 韓国では兵役を免れいと願うのは国民的な希望であり、負担NO.1でもある。高級官吏の息子などがこれを避けようとする不正は時々話題になっている。私は20代から満50歳まで現役、予備役まで長い間兵役の義務を終えて日本にきた。日本の平和憲法の有難さを羨がましく思った。その日本が今逆戻りの道のりに向かいつつあることは残念である。また「志願兵」を募集したり、「皆兵制」にしたりするのだろうか、戦前に逆戻りするかもしれない

脱いだ靴の向き

2013年03月12日 06時01分13秒 | エッセイ
通っている歯科で名前を呼ばれてまずスリッパを出してから靴を脱いで上がるが、待つ人に見られるので舞台に登壇するような気分になった。脱いだ靴を外向けにおく日本の習慣が私には抵抗があって横向けにした。韓国では日本式とは反対にそのまま入る方に向けて揃えるのが普通であるからである。食堂などでは揃えてくれることもあるが私は慣れていない。また、日本以外に外向けに置く国は知らない。私からみると日本式の外向けの習慣をみるとわざわざそれがなにかたいした日本文化を強調するようにみえる。しかし終戦直後の小津安二郎監督の映画「秋日和」で結婚を前にした二人のお嬢さんが靴を外向けずそのままである場面をみた。私は戦前の映画でも外向けをみたが(写真向かって左)、この映画からは終戦直後でもこの靴の置き方は今のようにかたく決まったのではないのかと想像する。また日常とお客さんとしてのマナーの違いかもしれない。いまのように一般化したのは戦後の意識した日本文化化によるものではないだろうか。外に出る時便利さから来たものかもしれいない。駐車場で車の向きも外向きにするのに似ている。それも便利ということ、緊急の時を考えてもそうするべきと説明されている。運転が出来ない私はなぜ駐車場で外向きに揃えて停めているのか不思議に思うことがある。 

回想と忘却

2013年03月11日 05時36分00秒 | エッセイ
今日は東日本大震災2年になる日である。昨日は日韓合同礼拝で木村公一牧師は忘却の意味について説教をした。イエスが最後の晩餐で「私を記念に」(「コリント人へ手紙」一の11章5節)と言った意味を深く掘り下げた。牧師は大震災の忘却するか記念するかという、震災に対する難しい気持ちを聖書に基づいて語った。私は礼拝に行く直前までに今週発行の新聞コラムに「奇跡の一本松」について同じ趣旨の原稿を書いたので良い説教として聞くことが出来た。そのメッセージは広島・長崎の核問題、朝鮮半島、沖縄、靖国などへ延々と繰り返し、1時間近く続いた。3,4回分の説教のように思った。そして彼がまた続いて1時間半の講演をすることになっていた。
 「日韓合同礼拝」の交わりの意味はあったのだろうか。牧師は説教後に信者や「客」には顔を向けず別室に移りドアを閉めて座っていた。個性の固いパーソナリティなのだろうか。それはそれで良い。しかしキリスト教を地の端まで伝道する職務は果たせないだろう。韓国のキリスト教が急成長したのはただ、偶然に出来たものではない。韓国の牧師や宣教師に学ぶところは人に「説教せず」、「しもべ」になる姿勢であろう。

小津安二郎の映画

2013年03月10日 04時40分18秒 | エッセイ
日本人が基本的に知っている映画を見ている。倉光氏が研究所に寄贈してくれた映画の「東京物語」「早春」「晩春」「秋刀魚」など小津安二郎の作品から見始めており、楽しんでいる。特に終戦直後の平凡なサラリーマンなど小市民の生活に注目してみている。恋愛、結婚、家族などの愛と親孝行が描かれている。小津監督の映画には田中絹代が出演しているのもあり、勉強を兼ねてみている。NPO田中メモリアルの事務局長の河波茅子氏はその時代の日本人にあった愛情や家族愛を持ったまま現在に至ったらよかったのにと言っておられた。その通りであり、卓見である。さらに私の大発見のような感想を言わせてもらうと終戦直後の日本人は韓国人とそれほど大きく異なっていなかったということである。女性の無愛想な表情などは韓国人とそうは変わっていなかった感がある。戦前は日韓は不幸にして同じ帝国であって多く同じ文化を共有していた。
 私が小津の作品を見ながら違和感が全くなかった感想はどいうことだろうか。日本は戦後戦禍を復元するだけのことではなく、もう一度生まれ変わったような面が多かったように受け取れた。戦後日韓・日朝はそれぞれ別れ別の政治状況の中で性格が変わって来たようである。一般的に日本は明治維新によってよく変革されたと言われているが、さらに戦後大きく変わってきたのではないかと感じた。これからも分析的に多くの作品を見ていきたい。

政治問題は学者に

2013年03月09日 06時02分41秒 | エッセイ
 先日韓国の元閣僚に竹島など領土問題について見解を求めたら政治問題は学者に任せると言う。それに似た発言が日本の国会でも言われたことを聞いた。ある学者が生き方について牧師に訊いたらそれは学者に訊いてくださいと言われたという冗談のような実話がある。政治家に学者が客観的なことを言えるだろうという信頼性があるからであろうか。それは事実である。しかしその真実を言わない人が多い。さらに歪んだ御用学者はもっと多い。竹島や慰安婦問題を客観的に理解している研究は多い。これらのセンシティブな問題に触れる学者はほぼいない。もし客観的に事実をいうと見方によって「御用」「左翼」「親日」などのレッテルが張られて傷つけられる。ヒットラーは学者は弱いものだと思いプロパガンダに大いに利用した。温厚な学者、専門バカのような学者は社会に役に立たない。
 先日中国の朝鮮族の学者が「日本人好き度」のアンケート調査を発表し、韓国でも日本の学者は独島が日本の領土と思う人が67%だと調査結果発表したのをネット上で知った。釜山近代歴史博物館(筆者写真)は日本植民地による開発や文化などを展示している。これらの研究や展示には「日帝強制占領」「略奪」などという非難誹謗するナレーションが大きく流れる。北朝鮮の学者の研究論文の冒頭に「金日成、金正日のお蔭様で」と書くような学者たちの知恵であると考えるべきである。

「火遊び」「火の海」

2013年03月08日 05時12分55秒 | エッセイ
「火の海」という言葉は私にとってはなじみのある言葉である。北朝鮮の常套的な威嚇の言葉である。今度はソウルとワシントンを「火の海」にするという。この常套的な言葉には威嚇性が弱いと思ったか、北朝鮮側は「停戦条約」を破棄し、「統一戦争」にも触れ、まさかの宣戦布告のような発表をした。南北間の緊張が高まり、驚いている。しかし韓国人はそれほど驚かない。古く韓国政府はしばしば北朝鮮の挑発を政治的に利用してきたので、このような言葉は聞き慣れているからである。また韓国人は北朝鮮から中国へ脱北して韓国に来ている者たちを通して北朝鮮が如何に貧乏な国、軍事的にも弱い国であるかを実感しているからであろう。若い指導者の体制、軍事指揮部の「火遊び」と思う人が多いかもし知らない。今高齢化社会で若い指導者が期待されている。しかし人命尊重優先の正義感、平和への強い情熱が「火の海」になるのではないかという憂いがある。
圧力と対話というのがアメリカと日本の対北朝鮮の政策であるが、対話にはなっていない。アメリカはキューバなどまだ敵国関係の国家が多い。日本に日朝関係の正常化を望んでも無意味であろう。日本は日米安保条約もあり、親米関係上北朝鮮を敵国としている。そして「拉致政局」を維持している。敵国を前提にしている状況で戦争が起こりやすいのは当然であろう。アメリカに願いたい。火遊びの子供を大人が守ってあげるのが大国である。対話を積極的に推進してほしい。韓国は国家の品格が踏み滲まれても北朝鮮を刺激してはいけない。それは戦争を避け、人命を守るというもっとも聖なる正義であるからである。シリアの内戦の記事を読みながら国民がそれほど人命被害を受けても政権を握っているアサド氏は罰されるべきである。李承晩大統領が学生が数百人殺されたことを知って政権を手放したのは偉大な判断だった。今米韓軍事練習は中止すべきである。アメリカは対話を勧めてほしい。
 

中国が怖い

2013年03月07日 05時19分22秒 | エッセイ
 十年ほど前から中国訪問の時「環境汚染」が最悪と感じたが日本ではあまりニュースになっていなかった。今日本のメディアは毎日大きく報道するのを聞いて日中関係の悪さから大げさに報道するのかとも思ってそれほど深刻に考えなかった。が、昨日定期的に呼吸器内科を受診した時、担当医師は寒さの峠を越えてやっと春を迎え多少安心だと思っている私に花粉症を警戒せよと注意してくれた。花粉症はないと自信を持って答えた私に先生は怖い話を続けた。空気中を漂う2.5マイクロメーターより小さい微粒子が中国から飛来してきて花粉に付着して、肺や気管支の深奥くまで入り込み、肺がんなどを引き起こす恐れがあるというのである。医師の説明を深刻に考えるようになった。
 サチュレーションで測った酸素供給率が90に満たない。これは酸素供給装置をつけるべきであるほど私の肺の機能が弱い私にとって花粉や中国の大氣汚染は怖いものである。私の事を含めて中国国民が心配になった。北京、大連、広州、成都、杭州などを訪問した時、酷い汚染を感じて中国人に言ってみると「霧が掛った」といったり黙っていたりで不思議にも気にせず、平気だったのを想起し、気の毒に思う。今でも一般の多くの国民は環境汚染は経済発展に付く「必要悪」と思い、我慢している。それは先進国が経てきた道のりでもある。しかし今黄砂や大気汚染は危機である。対策が遅れている中国はどうすべきであろうか。最高の対策の始まりは民主化しかないと言いたい。そして深刻な問題を自由に報道すべきである。
 東アジアには二つの危険国家がある。一つは大国の「汚染」国家、もう一つは小国の「核」国家である。我らはその危険な地域に住んでいることを認識しなければならない。

日韓平和コンサート

2013年03月06日 05時38分42秒 | エッセイ

 韓国の若い基督教牧師たちの平和運動グループが中心になって東日本の震災復帰へ支援する活動をしている。既に「韓日平和コンサート」として韓国内三か所で行い、義援金を東北に送ったという。この3月11日で二周年になっても、まだ完全復帰になっていない。しかし被災地から遠く離れて下関に住んでいる私にとってなかなか実感が薄いが痛みは共有しているつもりである。今は昔(?)神戸震災より東日本の震災は津波と原発の大きい傷として残っている。地震、津波、原発が絡み合った総合的な被災であった。選挙の時は原発は「無い」卒業」など全般的に政策や救援活動が行われている。それは「いくら強調してもし過ぎることはない」という英語のtoo~toの表現にならざるを得ない。今その大きい傷をそのまま回想するだけでは不十分、辛いことである。傷や不運から再生しなければならない。それには華麗な舞台は要らない。それには悔い改めという素朴な、そしてダイナミックな迫力が必要である。
 韓国のマスコミは日本は危険な国、先日スマートフォンを持ってきた韓国人に「東北地方への旅を控えよう」と警告メールが届いたのをみた。注意することも必要であるが、実は韓国は原発を多く持っている危険な国であるという専門家もいる。この度、韓国人の支援グループと共同で「チャリティ日韓平和コンサート」を計画している意味は大きい。そのコンサートの実行委員会長を私が勤めることになった。出演アーティスト(予定)たちは(日本側)光、どん弥五郎、龍太郎、ろくろう、風太郎、李陽雨、名前のないバンド(韓国側)アヒムナバンド、歌う牧師、お話し:小川哲史(写真家)、金鐘洙(アヒムナ平和学校代表)、梁在成(韓国基督教会環境運動連帯)である。この集いを通して新たに東日本の震災について一緒に考えてみませんか。

「絹代塾」の塾長として

2013年03月05日 04時55分34秒 | エッセイ
 まだ寒い。三月になって急に寒さが緩んだように感じてわりと寒さに強い東洋ランをベランダに出した。研究室で二つの集いの準備のためにワーキンググループの集まりで長として議論して帰宅する時は夜になっていた。再び寒さが戻ったようであった。ベランダに出した蘭が気になった。零下にはならないので我慢してくれると信じ、そのままにしておいた。「春よ来い、春よ恋い」。蘭が寒いから。
 新年度から下関出身の名女優田中絹代を顕彰するNPOメモリアルの「絹代塾」の塾長を努めることになった。さっそく職務を務めることで年間計画を準備した。下関を中心に映画人は多い。彼らを総動員できればと思っている。まずスタートは3月20午前中央霊園で田中絹代の市民墓参会の「花嵐忌」に参加することである。その日の午後は「田中絹代の旅立ち~占領下の日米親善芸術使節」という未公開のフィルムを上映することになった。
 今地方の町村では村おこしが盛んにブームになっている。そこで注意すべき点があると思う。それぞれのゆかりのある人物を探して照明を当てることは良いこととしても狭い郷土心に埋没された縄張り意識を強調するようなことは禁物。田中絹代を下関の出身の人物というよりは大正昭和を生きた時代の象徴、日本さらに世界に向け、普遍化のための顕彰となるようにすることで私の塾長としての使命は重い。

別れの挨拶

2013年03月04日 04時41分17秒 | エッセイ
新年度に向けて人事異動のニュースが耳に入る時期になった。昨日は小春日和、韓国からの派遣教師として2年間下関中等学校に務めて3月に帰国する呉信媛氏と園芸センターへ梅の花を見に行ってきた(先日「南苑」で 送別会)。梅の花見は既に遅かった。彼女は二人の息子の母であるが少女のように日本での思い出を多く持ちかえりたいと花の写真をパチパチ撮っていた。彼女が派遣されて来て間もない時にここに案内した思い出の場所でもある。2年間彼女は教会でも数多く奉仕し、私の講演会などにも来てくれて親しく付き合ったので別れが近付くことだけでも寂しく思っている。これからそのように別れる人がまたあらわれそうである。
 別れ方に人間性が分かると失言のように言ってしまった。動物も会った時は挨拶に近い身振りをするが、別れの挨拶はしない。挨拶は人間文化の基礎ともいえる。送別会は人間的であること、もっと人間的なことは離れても完全には別れないということである。以前にも書いたが毎週会って、親しく三羽烏のようにつきあったがそんな友人の送別会に参加せず人間関係の全てが消えたような人がいた。私は形式的な会を重要視するわけではなく、別れ方から友情や人間性が伺われると思っている。

介護と被介護の心

2013年03月03日 06時05分15秒 | エッセイ
 我がマンションのすぐ後方にサービス付き高級高齢者住宅の建設工事が終半になっているようである。足台とテントが張られていて工事の状況を観察することが出来ず遺憾である。特に私が関心を持つのは「もっと老後」を考え、つまり介護施設として関心を持っているのかも知れない。おそらく多くの人は私のように「介護される」ことばかり考えているだろう。しかし介護とは「障害者あるいは高齢者・病人などの生活支援をすること」であり、自ら「他人を介護する」という意味の「他人のため」の心に成り立っている。被介護の心より介護の心が強調されていることを想起しなければならない。
私にはその心が全く用意されていない。家内に「介護される」ことを当然だと思っているようであるからである。家内はその心を持って看護、介護の勤務をして過労の状況で手の痛みもあり、手術を予定している。それなのに帰宅して食事を用意するなどを見ても私の心使いが足りない。最近私は嗅覚を失い「無味無臭」になり調理する気持ちも失くし、仕事のテンポも遅くなっている。以前にはよくチゲなべなどを作ったりしていたのに、昨日は一日中家にいても夜8時近くに帰宅する家内を待ちながら、仕事に夢中で空腹を感じることもなく時間を過ごした。今まで家内が喜んでくれるので作っていた食事も自分のための調理であったのかもしれない。介護の心が弱い自分を反省している。また一般的に介護する施設側ばかり努力するが、一人一人の個人が「介護する心」を持つことが大事であることを強調すべきであろう。

孫基禎

2013年03月02日 02時44分19秒 | エッセイ
 昨日、3月1日は韓国の国慶日の一つであった。日本植民地の統治に反抗した記念日である。数年前までは民団の記念式には呼ばれて参席したことがあるが、昨日はなにも連絡がなかった。民団がその記念行事をしなかったのか、民団の存在が希薄になったのだろうか。リーフェンシュタールの映画『オリンピア』を鑑賞した。1936年ベルリン五輪マラソンで 韓国人の孫基禎が金、南昇竜が銅メダルを取った生き生きした記録が映っていた。当時は日本植民地時代であり、日本国の選手として称賛された。しかし東亜日報は8月25日孫基禎のシャツに貼り付けられていた日の丸を消して報道し、日本政府は東亜日報の記者8人を懲戒とし、9ヵ月間停刊措置をした。孫基禎は朝鮮半島の北部生まれであり、戦後韓国と北朝鮮が国籍復帰運動を起こした。しかしIOCは当時の記録は歴史なので変更できないといった。
 またベルリン五輪の当時はナチス党政権下にあって、リーフェンシュタールがナチス党を正当化したのではないかとして罪に問われた。彼女は「ありのままを撮った」という。映像美によってナチス党の強大さが伝えられていると評価された当時、多くのドイツ人がヒトラーに熱狂したように彼女もそれによって罪に問われることはあってもそれ以上問われることはなかった。政治家や思想家でもなかった映画監督がその罪に問われたことは世俗的な世間の視線によるものである。ただ彼女の作品は美しく光っている。これもプロパガンダであろうか、現在作られている多くの映像もプロパガンダ的であるものは多い。いま映像を通じてそれについて考えている。