崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

『大韓帝国の保護と併合』

2013年03月20日 05時23分57秒 | エッセイ
先日友人である県立広島大学の原田環名誉教授と知人の首都大学の森山茂徳教授の共編の『大韓帝国の保護と併合』をいただいた。大韓帝国併合、特に1905年の第二次日韓協約をめぐって政治、外交、経済、社会など、幅広く論議されている。日本の朝鮮植民地が悪であったか、開発近代化であったのかという、新しく危険な論議も含んでいるので軽くは読めないと思う。私は主に戦後における植民地遺産に関する研究を続けているので時代的には距離があるが連続して考える必要がある。その意味で原田氏と『植民地の朝鮮と台湾』の共編を出したこともある。
 本書は李氏王朝を引きずっている大韓帝国の無力さ、日露戦争をめぐって当時の大韓帝国と国際的な情勢、西洋への反植民地化に対する脅威における日本の役割が正当化されるようにも読める。本書は日韓の研究者によって構成されていても歴史観は日韓の学者によって自国を味方するような内容だという印象がある。ここで韓国の朴大統領が「日本に歴史認識を正せ」という意味はどういうことだろうか、考えてみるべきである。この本を読む前に、私は常に考えている「客観性」をどう保つべきかを考えた。学者は民族と国家を超越することが出来るかが試金石であろう。政治家や一般人に比べると研究者が客観的であると評価できるが、南京問題、従軍慰安婦、創始改名、強制連行などなどを客観的に研究し、発表することは難しい状況である。
 戦後韓国の解放と独立過程においては植民地史をもって反日愛国を強調していたのは事実である。それは植民地から解放された民族において一般的な現象ともいえる。旧宗主国であった先進西洋諸国や日本は反省の沈黙をしたのも同様であった。しかし歴史は過去のものではなく、生き続け、政治的なカードにもなりうるものであった。
 「歴史認識を新しくせよ」ということばがどれほど難しいか。それは自分自身に戻って考えるべきであろう。歴史を持って相手を攻撃することはプロパガンダに過ぎない。日本は1910年に韓国併合を合法的に行い、韓国を近代化させたと主張しても意味がない。なぜなら戦後の韓国における歴史認識がでっちあげの歴史だといってもそれももう一つのポストコロニアル歴史であることを認めざるを得ないからである。本書が歴史をひっくり返すことは出来ないが、私は歴史をもって客観的な思考をする上で良い教材だと思っている。一読を勧める。


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