崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

愛憎のシーソー

2011年04月18日 05時05分00秒 | エッセイ
 梅光大学で行われたハングル能力検定試験の試験場へ激励に行った。韓国教育院長の徐聖淑氏が総監督している。彼女によると他県より応試者も多く、予定通りに行われているという。仙台など多くの地域では中止になっている。下関は韓国と地理的に近いし、韓国語に関心を持っている人が多い。大学などの教育機関には勿論一般のハングルクラスも多く、韓国文化への関心が高いという話が聞けた。しかし、東亜大学では留学生も多いが、韓国語を続けて勉強をしようとする学生は非常に少ない。これからは言葉だけではなく、韓国文化に関する講義があってもよいのではないかと思われた。
 私が出席する教会にも韓国からの留学生や滞在する人がいて活気を持たせている。今週は教会の二大行事の一つであるイースター(復活節)がある。ユダヤ人たちの訴えにピラドが裁判する聖句から説教があった。人民裁判のようなものであり、人々のねたみによるものだと言った。牧師は社会的地位が高くなると信仰は低くなり、逆に自分が低くなったとき、相手が高くなりよく見えるシーソーに比喩して話をすすめた。私は愛憎の心理学を比して聞いていた。Love against Hate つまり愛と憎の関係がシーソーや天平はかりのようなものであるという有名な学説がある。私はねたみ(妬み、嫉み)のニュアンスが分からず家内から説明してもらった。教会こそ愛と憎のシーソーで説明ができる場であることを認識しなければならない。