崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

長周新聞の報道

2011年04月14日 05時39分56秒 | エッセイ
 
 昨日は亀松邸宅で例年のように花見があった。そこでハンドベルを練習しハンドベルサークルが生まれた。心を合わせた美しい音色に拍手を送った。帰宅したら長周新聞(2011,4,13)が届いていた。そこに「しものせき映画祭」が報道されている。事後記事であり、全体の内容がよくまとまっている。竹下一記者はよい聴取者でもある。その最後の私の講演に関する文を引用しておく。
 
 映画がもたらす「小さな感動」が政治的経済的に大きな力を及ぼすこと、「社会を変える力を持つ文学の価値を共有すべきだ」と提起。崔教授はこの映画には日本と韓国の共通の文化が含まれていると同時に、その違いについて伊丹十三監督の『お葬式』(1980年代)と比較しながら説明した。上映後に、会場から質問や感想が出された。交流では、「死んだ人をモノとしてとらえる」西欧的な個人主義が浸透しているが、東アジアにおける「祖先や家族を大事にする」という考え方は、2000年来の農耕の歴史と結びついていることが論議になった。崔教授は「人間は永遠に生きるという願望を持っている。死を社会的考えることだ」と語った。
 
 今度の映画祭では下関で映画の原作者、監督、製作者、俳優、編集者、ナレーター、コーディネーター、デザイナー、研究者、記者、後援者などが総動員された。下関には文化的に力があり、発信することができる。私はこの映画祭の実行委員会の副委員長を無事に終え、一個の地方都市の下関がこのような素晴らしい人材を持っていることを確認し、大きい希望を持つことができた。