崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

「死」感動すべき人間の運命

2011年04月11日 04時58分53秒 | エッセイ
 
「しものせき映画祭」の三日目、最終日の午後は市民会館大ホールで行った。ホームテレビやコンピューターなどで映画を見るときとは異なり真っ暗い中、携帯などすべてが遮断された状況で集中し、大型スクリーンと音響によって観賞することで、いわば真空状態で鑑賞し、考え、感動することは忙しい現代人にとって必要な時間でもある。最初に田中絹代出演の「おれの行く道」を観た。次に、奥田瑛二監督作「長い散歩」を鑑賞して、監督のトークショーを聞いた。幼児虐待という社会問題を扱った作品である。虐待される5歳の女児を連れて行って愛情によって暖めてあげる。連れ出した初老の男は校長先生だったにもかかわらず妻にも子供にも愛情を注ぎきらず、愛のない家族だった。そのことを悔いながら幼子に愛情を注ぐ。しかし法律では誘拐になり、刑務所に入る。5歳の女児を択び、リアルに演出させる過程の話などがされた。
 実際事件やテレビドラマとは違って大きな資金で作り、大切な現代人の真空状況で見るべき映画の本質が問われる問題点として私は映画とトークショーを鑑賞した。この映画はストリーから考えると子供を虐待する悪い親、その親から子供を守る善の人の「善悪」の二項対立では古臭くなりがちである。玩具ではない幼児に愛情による人間性を回復させてから悪い親に返す決心し、自首を決める瞬間の電話の場面は「感動」のクライマックスのシーンである。法律や規範を超えて人間尊重の「メッセージ」とともに感動を持たせる点がこの映画の最大の価値と思った。それで大きな資金と総力をかけて映画を作るのであろう。ストリーは忘れても感動のシーンが脳に蓄積され活力になることと思う。今回の映画祭で高齢の女性の死(「祝祭」)、と犬の死(「老犬に愛を込めて」)、そして青年の死が扱われた。死は惨めな事件であり、感動すべき人間の運命でもある。最後に東亜大学学長の櫛田宏治先生と一緒に鑑賞した映画「おとうと」は若い青年の死がラストシーンであった。