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芭蕉の俳句(164)

■旧暦12月14日、月曜日、大寒。生協をいつも運んでくれるお兄ちゃんが、この冬一番の寒さですと太鼓判。

寝る前に山頭火の随筆集を読んでいる。俳句はコピーみたいで、少数の作品を除けば、どうも感銘しないが、随筆はどん底を経験した人の言葉と言うほかはなく、心に閃光のようなものを残す。巻末の年譜をじっくり読んで、行動をよく見たのちにもう一度随筆に返ると、深い洞察力と行動の間に落差が感じられて、興味深い。「人は嘘をつくものだから、行動を見よ、人が見ていればカッコつけるものだから、その人の安んじた世界を見よ、そうすれば、その人が理解できるだろう」と言ったのは、孔子だったが、そういう観点で見ると、山頭火という人は、悲劇的な側面で語られることが多いが、その人生は喜劇的な色彩を帯びているように思えてくる。これは、こと、山頭火に限らず、ぼく自身だって、己の半生を振り返ってみれば、悲劇どころか、まったくの喜劇であって、笑い出さずにはいられない。どうも、人生とはそういうものなんじゃないだろうか。

「諸君、喝采を。喜劇は終わった!」 ベートーヴェン

(写真)季節のうつりかわりに敏感なのは、植物では草、動物では虫、人間では独り者、旅人、貧乏人である(この点も、私は草や虫みたいな存在だ!)山頭火




子どもらよ昼顔咲きぬ瓜むかん


■元禄6年作。なんだか、良寛みたいで、惹かれた。子どもと老人は、俳句が上手とよく言われるが、俳句の対象としても、人生のはじまりと終わりを結んでいて、何ものかを語りかけてくれる。写真を撮るようになって、人物は、意識的に、避けてきた。正面から表情を撮ろうとすると、なにかが付け加わってしまう気がするのだ。そこで、人物は、背中を隠し撮りすることにした。そうして、何枚か撮ってみると、背中は、子どもでさえ、何かを語りかけてくれる。芭蕉の句は、子どもらに、呼びかけている。「昼顔が咲く」ということが、瓜が十分冷えた時間と夏の暑さを表していて面白い。おそらく、子どもらにも了解できる時間の告げ方だったのだろう。瓜むくぞと呼びかけられた子どもたちの顔が輝きだすようだ。
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