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往還日誌(167)






■6月15日、土曜日、曇り。

朝から、若宮行きの準備。出町の床屋へ行ったが、待っている人が多く断念。ボナペティで食事パンをいくつか買って帰宅。Slow Pageのハウスブレンドを淹れて食する。

この2週間の京都は多忙で、瞑想がまったくできなかったが、あえてやらなくても、日常の中でも、瞑想は可能なことに気づきつつあり、ウォーキング中や、コインランドリーの乾燥待つ間などで、それとなくやってみている、ごく短時間とはなるのだが。

きょうは、地下鉄から京都駅の新幹線のホームまで、立つ瞑想と歩く瞑想を試みてみた。

歩く瞑想をしながら、スーツケースを引きずって、京都駅のグランドキヨスクの方へ向かうと、不思議なことに、キヨスクを出てきた僧侶が目を止めて近づいてきた。こちらは、足裏のセンセーションに集中する瞑想の中にあり、半眼になっているので、視線は僧侶には与えない。

どうやら、僧侶というのは、瞑想しているのが、わかるらしいのである。

こちらは、瞑想のもっとも基本である「身随観」でしかないのだが。

瞑想については、まだ、いろいろ、わからないことが多い、概念的思考との関係や主体的実践との関係が、とくに知りたいところとなっている。瞑想を行いながら見えてくることもあろうかと思う。

18時ごろ、若宮到着。駅ビルでカットしてもらい、丸善桶川に立ち寄って、詩集が入荷したかどうか尋ねてみると、来週になると言う。取次店に発注してから、2週間くらいかかると関学生協も言っていた。

新幹線と高崎線は、ひたすら読書。左川ちか詩集とサイモン・シンを読む。サイモン・シンは面白いが、数学理論そのものからは、離れてしまうので、貴重な読書時間をどう案分するか、思案している。

帰宅後、体調を崩した妻に替わって、夕食を作る。娘がトラウトを大宮の魚屋で買ってきたので、醤油バター焼きにするが、トラウトは脂分がかなり多く、バター焼きには上手く合わなかった。

夜、ぼんやりするために、コンビニでソフトクリームを買って、店の隣の医院の柵にもたれて食べていると、蛙がしきりに鳴いていた。今夜は雨のようである。





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一日一句(5271)






夏の夜は歴史の聲が乱れけり






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