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L・Wノート:Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik(19)


■旧暦11月10日、日曜日、

(写真)舗道へ落葉して

よく寝た。昨日書いた手紙を数通投函、買物など。ヨーカ堂に自動レジが登場。試してみる。買った品物をスキャンの左の台に置かないと、次の商品がスキャンできない仕組みになっている。バーコードを読み取るのは、簡単だが、操作の流れの説明が少し不足している気がした。大量の商品を購入したときなど、あの台で足りるのだろうか。しかし、レジのおばちゃんたちの合理化になるのだろう。便利ではあるが、複雑な気分である。夕方、運動。2カ月ぶりに再開。まずは、筋トレからじっくり。

毎日新聞が、「東日本大震災:借り上げ住宅制度、福島県『募集停止を』 各自治体に要請」という記事を12月1日の夕刊で報道したのに、削除している。ちょっと、情けなくないか。毎日新聞は経営上の危機から、聖教新聞等、創価学会の関連印刷を大量に受注している。削除はこの線が疑われてしまうのではないか。同じ記事を日経が書くと、ずいぶん、トーンダウンし、産経になると、理解を示す書きぶりに変貌するから、驚く。いったい、どういう事態が起きているのか、わかって書いているのだろうか。だれを犠牲にし、だれを利するための施策なのか、考えたことがあるのだろうか。今、ここで起きている事件は、まさに歴史なのだ。その危機の重大さを感じ取れないのは、原発は安全だと言ってきた連中と同じ鈍さだろう。だから、権力のチンドン屋と言われるのだ。

日経の記事 ここから>>>

産経の記事 ここから>>>



Der Beweis, könnte man sagen, zeigt nicht bloß, dass es so ist, sondern: wie es so ist. Er zeigt, wie 13 + 14 27 ergeben.(...) Ludwig Wittgenstein Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik p. 159 Werkausgabe Band 6 Suhrkamp 1984

証明とは、ただ、そうであることを示すのではなく、なぜ、そうなのかを示すのである。証明は、なぜ13+14が27を生じるのかを示すのである。

■wieはhowと同じだから、「どのように」というプロセスと考えることもできる。そうなる理由を示すには、そうなるプロセスを示せばいいわけだ。論理の強制性、あるいは、ある種の権力性にずっと興味を持っている。理性の権力というべきかもしれない。日常会話でも、あまりに理詰めで来られると、「感情的に」反発したくなることはないだろうか。反論するにしても、そうした感情をベースに論理を組み立てることはないだろうか。理性と感情は、本来、分かち難いものではなかろうか。最初の論も、実はベースに感情があるかもしれない。

哲学は、実証主義とは異なるから、実験や観測や仮説が武器ではなく、最終的には、論理しかないと思う。そういう自分の最終手段さえ自己批判してきた一群の哲学者たちに、深い敬意を覚える。信頼できると思えるのだ。





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一日一句(272)






二つ浮き一つは沈む柚湯かな





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