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一日一句(273)






冬の雨百年経つてしまひけり





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L・Wノート:Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik(21)


■11月15日、金曜日、、漱石忌

(写真)12月の光

今日は、非常に冷える。東京は、朝、雪になったようだ。俳句関係を除くと、ここで検討したことは、期せずして、毎年秋に行っているTJ大学でのレクチャーの準備になっている。およそ一年かけて、3時間のレクチャーの準備をしていることになるが、じっくり探求するのが好きな自分には、このペースは向いている。



火山学者の群馬大教授、早川由紀夫さんが学長から訓告を受けた。ここから>>>  早川教授のtwitterでの表現は、過激かもしれないが、なぜ、福島の農家がセシウム米やセシウム牛を生産しなければならないのか、考えさせる。一人の教授の言葉の表面的な部分を問題にする前に、原子力研究を推進してきた大学自身の行動を自己批判した方がいいのではないか。こうした悲劇の農家を作ってしまったことに責任がないとは言えないだろう。この写真〉〉〉

以下の映像は、早川教授の訓告会見に学部長が中止申し入れを行った映像だが、ここで、注目されるのは、企業と大学は、建物管理の点で、同じだとしている点で、大学と利潤追求機関が、同じものとして捉えられている。それは、学部長が建物使用許可を与えない理由にも明白に出ていて、建物の使用目的に沿わないから、という。空間に何らかの目的を設定し、それ以外を頑なに排除しようという思想は、聖なる領域や宗教施設を除けば近代以降に出現したものだろう。この学部長が信奉しているのは、教条的な目的合理的行為である。目的合理的行為とは労働行為のことであり、それは資本制社会では利潤追求行為と関わっている。研究教育を目的にしたはずの行為が、逆説的に、大学としての原子力研究推進につながるのは、こうした構造的な理由があるのだと思う。






友人の俳人、萬燈ゆきさんから句集『玉虫』をいただいたので、何句か紹介したい。萬燈さんとぼくは、2003年に古志入会。その後、2009年にぼくは退会しているが、彼女は、現在、埼玉支部長として、後進の指導に当たっている。


一切はなかりしごとく山眠る

3.11以前に書かれた俳句だが、今読むと、迫って来るものがある。


その中に蝶の骸も落葉焚

どきっとさせるものを含んでいる。生命の循環の非情さ感じるだけでなく、蝶の骸という捉え方に、一つの美学を感じた。


いく日か愛でて冬瓜庖丁す

この気分はよくわかる。冬瓜は、どこか愛嬌があると思う。


存外にはかなき味や鮫の肉

鮫は冬の季語。獰猛な鮫の肉の味を詠んで「はかなき」は、無常観にも通じるだろうか。その鮫を食らう我ら。


松原のどこを行かうと秋の径

松だけを見れは、常に青く四季はないが、松原を含む全体に目を転じれば、秋が立ちこめている。松にも秋はやってくる。それを捉えた句。


自づから裂けし柘榴を畏れけり

あの柘榴の裂け方は、怖い。しかも、自ら裂けたのである。この気分、言われてみるとよくわかる。萬燈さんの句は、どれも季節感をやわらかく掬い取っている。俳句の俳句たる本質を追究しながら、なお、新鮮さを失わない。



前古志主宰の長谷川櫂先生が、ブログを始められたようだ。楽しみが一つ増えた。ここから>>>



24. (...)Der Beweis ist unser Vorbild eines bestimmten Ergebens, welches als Vergleichsobjekt(Maßstab) für wirkliche Veränderungen dient.(...)   Ludwig Wittgenstein Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik pp. 161 Werkausgabe Band 6 Suhrkamp 1984

証明とは、一定の結果を導き出す上での範例である。それは、実際の諸変化に対する比較対象(基準)になる。

■これを読んだとき、Max Weberの理念型とよく似ていると思った。Weberは新カント派の影響圏にいるから、主客二元論を前提にしているが、Wittgensteinは、その図式に疑問を持っている。その点から、証明を扱うのだが、証明が証明としてどう使用されるのか、について、この個所は語られているのだろう。




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