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Cioranを読む(81)



■旧暦12月6日、金曜日、

(写真)無題

今日は、午後から、買い出しと掃除。あまり人は街にもスーパーにも出ていなかった。賀状の俳句を決めて、明日、印刷の予定。さすがにおめでたい俳句は一つも書けない。

環境省が、22日、「千葉県内の公共用水域における放射性物質モニタリングの測定結果について」を発表した。添付資料のpdfファイルを見ると、近所の江戸川や坂川の河川敷の放射線量は、0.4μSv/h強とかなり高い。江戸川河川敷は、土手に遊歩道が整備され、そこで、今でも、若い人たちがジョギングを熱心にしている。ご老人はウォーキングをしている。ウェブに関心がない人々は、ほとんど、こうした情報は入らないのだろう。テレビでは、まったく報道されない。市役所が、危険性を告知するしかないと思う。松戸市に注意を喚起するようメールは送ったが、迅速に動くかどうか。江戸川は、ぼくの散歩コースで、息抜きの場所、作句の場所だった。改めて憤りを感じる。



Le doute s'insinue partout, avec cependant une exception de taille: il n'y a pas de musique sceptique.     Cioran Aveux et Anathèmes p.112 Gallimard 1987

疑いは、どこにでも、入りこんでくる。だが、重要な例外が一つある。音楽だ。懐疑的な音楽というのは存在しないのである。

■とても面白い考えだと思う。クラシックで言えば、バロック、古典派、ロマン派あたりまでは、確かに、懐疑的な音楽はないように思えるが、現代音楽になるとちょっと違うような気がする。たとえば、ナチの収容所で初演されたメシアンの「世の終わりのための四重奏曲」は、人間存在そのものへの疑義を含んでいるように感じられるし、ヴェーベルンの短く高密度の作品群は、ときに、音楽そのものへの懐疑を感じさせることがある。
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一日一句(287)






あをあをと空一面の年が逝く





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