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Cioranを読む(78)


■旧暦11月20日、水曜日、、赤穂浪士討ち入りの日

(写真)冬紅葉

ヒッグス粒子が98.9%の確率で発見されたらしい。面白かったのは、物理学で新粒子が「発見」されるというのは、99.9999%以上の確率で存在するときだという点だった。この数字は、10,000回に1回は非在、ということになる。10,000回に1回の非在は、存在すると見なすわけだ。この10,000という数はどうして出てきたのか、興味を惹かれる。新聞報道では、世界には、粒子を探索するグループが1,000くらいあるから99%の確率では、10ぐらいのグループに、はずれがでてしまうからだと説明されている。これは存在基準を99%にしない理由で、99.9999%に設定した理由ではない。だが、この論理を敷衍すると、非在確率を1%未満にすればいいことになる。粒子探求グループは、現在、1,000だが、この基準では、今後、最低10,000を想定していることになる。今後の展開を踏まえると、10,000というグループ数は現実的とも非現実的とも言えるだろう。だが、数字の設定論理自体は、きわめて社会的である。この設定論理が、正統なものだとしたら、真理が社会的条件に規定される一例ではなかろうか。



Quelle incitation à l'hitarité que d'entendre le mot but en suivant un convoi funèbre!      Cioran Aveux et Anathèmes p.106 Gallimard 1987

葬列の中で、目的という言葉を聞くのは、なににもまして哄笑の種になる。

■面白い断章。死が虚無だとすれば、目的はナンセンスだが、虚無は有の反対概念なのだろうか。虚無もまた、未知の粒子で充たされている、としたら。その存在・非在の基準が社会的なものだとすると?

 
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一日一句(277)






ムカついて豚まん喰えば年の暮





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