電脳筆写『 心超臨界 』

良い話し手になるゆいつの法則がある
それは聞くことを身につけること
( クリストファー・モーレー )

読む年表 戦国~江戸 《 戊辰戦争——渡部昇一 》

2024-11-10 | 04-歴史・文化・社会
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天下を二分する内乱を避けることができたのは慶喜の功績だが、それは徳川光圀にさかのぼる。光圀の勤皇思想が幕末の日本を救うことにもなったのである。維新の元勲(げんくん)たちはそのへんをわかっていたから、まもなく慶喜は許され、晩年には公爵に列せられた。慶喜が隠退(いんたい)した時、田安(たやす)家から養子に迎えた家達(いえさと)は、後に貴族院(きぞくいん)議長になった。第一次大戦後のワシントン軍縮会議では全権委員であった。明治維新が西洋やシナのような「革命」でなかったことは、この一例でもよくわかる。


◆戊辰戦争(ぼしんせんそう)

『読む年表 日本の歴史』
( 渡部昇一、ワック (2015/1/22)、p174 )

1868(慶応4年)
《 戊辰戦争(ぼしんせんそう) 》
天下の大乱を回避(かいひ)させた徳川光圀(みつくに)以来の尊皇思想

新政府軍と徳川方旧幕府軍のあいだで起きた鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦い(戊辰(ぼしん)戦争の始まり)においては、旧幕府勢の兵力およそ1万5千、それに対して薩長・長州を主力とする新政府軍は約5千。ところが、薩長側が「錦(にしき)の御旗(みはた)」を押し立てたことが大きかった。これが昔から天皇を奉じる「官軍」の旗印(はたじるし)とされていたことは幕末の日本人なら楠木正成(くすのきまさしげ)の活躍などを描いた軍記物語『太平記(たいへいき)』でよく知っていたから、幕府軍は大いに士気を殺(そ)がれ、徳川慶喜(よしのぶ)も戦意を失った。

慶喜は水戸(みと)の出身であり、光圀(みつくに)以来の尊皇(そんのう)的な思想が強く、「官軍」と戦うことを好まなかった。そして江戸に戻ってからは恭順(きょうじゅん)して戦争をしないと決める。このことは日本にとって実に幸せなことだった。あのときもし慶喜が断固戦うと宣言していたら、大きな内乱が起こり、勝敗もどうなっていたかわからない。というのは、何しろ薩長方には軍艦がほとんどなかったからである。幕府は開陽丸(かいようまる)をはじめ、何隻もの軍艦を持っていた。幕府が本気で戦うつもりなら、官軍を箱根あたりで迎え討ち、幕府の船が大坂あたりに逆上陸して後方を押さえれば、官軍は干上がってしまう。

フランスは幕府を援助すると言っていたから、フランスが幕府側につけば薩長にはイギリスが味方する。すると英仏を巻き込んで、どんな戦争になり、どういう結果になったかわからない。だが、慶喜が恭順の意を示したために、あとは本格的な戦いは行われなかった。江戸では幕府側の抗戦派が結成した彰義隊(しょうぎたい)が上野に立てこもって抵抗したくらいだった。

あとは残党征伐に近い。奥羽越列藩(おううえつれっぱん)同盟(奥羽と越後(えちご)諸藩による同盟)と新政府が戦った、いわゆる北越(ほくえつ)戦争でも官軍は勝利を収めた。その後、戦局は会津(あいづ)に移り(会津戦争)、奥羽越列藩同盟のなかで京都守護職だった会津藩と、江戸守護にあたっていた庄内(しょうない)藩は最後まで抗戦するが、ついに両藩とも降伏する。

天下を二分する内乱を避けることができたのは慶喜の功績だが、それは徳川光圀にさかのぼる。光圀の勤皇思想が幕末の日本を救うことにもなったのである。維新の元勲(げんくん)たちはそのへんをわかっていたから、まもなく慶喜は許され、晩年には公爵に列せられた。

慶喜が隠退(いんたい)した時、田安(たやす)家から養子に迎えた家達(いえさと)は、後に貴族院(きぞくいん)議長になった。第一次大戦後のワシントン軍縮会議では全権委員であった。明治維新が西洋やシナのような「革命」でなかったことは、この一例でもよくわかる。

さらに、大正天皇のお后(きさき)である貞明皇后が、秩父宮雍仁(ちちぶのみややすひと)親王に旧会津藩から勢津子(せつこ)妃を迎えたのをはじめ、昭和天皇以外の弟君にもすべて朝敵(ちょうてき)の側から嫁を迎えるように取り計られた。こうしたことによって、維新のときの朝幕(ちょうばく)の戦いの傷は完全に消えたと言ってよい。
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