例えば、チャイコフスキーもブラームスも相当なお爺さんになって亡くなったように思うときがあるけれども、実際の没年齢を見たら、チャイコフスキーはたかだか53歳、ブラームスは63歳。今の感覚で考えたら相当に若い。私がたまたま最晩年のブラームスの身体の意識に同化してコンサートホールに座っている夢を見たのは小学生のときだったが、そのときのブラームスは杖がなければ歩けないほどに身体が弱っていた。私の感覚では80歳ぐらいに老い衰えた身体のように感じた。が、気持ちは若々しかった。ブラームスが〈よっこらしょ〉とホール客席に座ると劇場支配人が挨拶にやって来た。いつものように挨拶を交わして少し世間話をし、ブラームスは上機嫌に微笑んだ。ブラームスの心中は音楽の女神へのひたすらに純粋な感謝と自分が女神から受け取り書き留めた音楽がこの世の人々の心に深く豊かに届いて実を結んでいることの喜びに満たされていた。ブラームスはあらゆる作品を〈自分が作った〉とは決して考えていなかった。〈天からの賜り物〉と思っていた。。ということを、しごと帰りにつらつら考えた。
今宵は、ぐったりと疲れたしごとのあと、帰宅してうっかり長風呂をしてしまい、ラジオのヘンゲルブロック指揮北ドイツ放送エルプ・フィルのブラームス交響曲第三番を聴き逃してしまった。いや、ブラームス交響曲第四番だけでも聴けたことを感謝しないといけないかもしれない。そんなことを思いながら、布団に倒れ込んだ。
先週の金曜夕方以来、頭の中から離れないオーケストラの哀しげな響きがある。しごとのあとなど、そのもやもやとした旋律線をなんとかスケッチブックに書き留めようとしているのだけれども、書いても書いても何かが違う感じで、何度も何度も書き直しをしている。その姿をまだちゃんと掴み切れていなくて、ずっともやもやしている。。
小学校四年生になったばかりの頃だったと思う。たしか、日曜の朝食の後でたまたま今は亡き父が、グトニコフ氏のヴァイオリン独奏とゲンナジ・ロジェストヴェンスキー氏指揮モスクワ・フィルの演奏によるチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲のレコードを出してきて、〈これは、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲と同じくらいに素晴らしい曲だから聴いてごらん〉と掛けてくれた。私は、たちまちその音楽の虜になった。父にせがんで、演奏が終わる度、その日だけでも五回はそのレコードを頭から掛けてもらった。父は、私からの度々の要望に、ニコニコと嬉しそうに応えてくれた。
今日は、しごとのあと、コンビニエンスストア二階の休憩所に隠って王党派〈メロン〉の妄想にぎりぎりばりばりと耽っていたら、うっかり辻彩奈さんのヴァイオリン独奏、三ッ橋さん指揮東フィルの演奏によるチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲のラジオ放送が始まる時間を過ぎてしまっていた。あわてて途中から聴いている次第。まことに若々しくて美しくて素晴らしい演奏に、さきほどまでの王党派〈メロン〉のあれこれのことをすっかり忘れはてました。