休みの昨日は、午後、愛車ペダルを三時間半漕いで立川の国立音大にお邪魔しました。作曲科の川島素晴先生のワークショップ授業(一般聴講可)を聴講させていただくのが目的。昨日はゲスト講師南聡先生によるクレメンティ、ベートーヴェン、リスト、ラヴェルらのさまざまな楽曲における「作品の美がどこにあるか」「作品の美とは何か」に関する授業。一時間半の限られた時間の中での話だったのでかなり駈け足でしたが、「形式主義」「構造主義」「対称(キラル)」「非対称(アキラル)」「破点(ブレイクポイント)」「揺らぎ」などをキーワードにされた話は、非常に面白かったです。授業のあとは、帰りのことも考えて、作曲専攻の一年生の作品発表審査会(一般公開)の前半だけを聴かせて頂きました。独奏楽器とピアノによるアンサンブル作品。本当は後半にもたくさん聴いてみたい作品がありましたが、何せ片道三時間半なため、泣く泣く中座、帰宅しました。
歌誌『塔』11月号に、花山多佳子先生の選で父への挽歌6首を掲載して頂いた。その6首のうちの1首の仮名遣いのことで、実はいまだに迷っている。その1首とは、
おじさんと女の子が部屋に来てゐると最期の父はしきりに語りぬ
私は普段、旧仮名遣いで歌を書いているので、そのルール通りに表記すると本当は〈をぢさんと女の子が~〉になるのだが、原稿用紙に書き付けるとき私は敢えてそうしなかった。末期の父の「おじさん」という言葉がそのまま「をぢさん」ではない可能性もあるかもしれないし、父の発音どおりに書いた方がよいのではないかと思われたからだ。しかし、本当にそれでよかったのだろうか。いまだに迷う。
仕事から帰ってきて、夕飯ののち、短歌10首をなんとか捻り出さむと机の前で呻吟するも、なんにも出て来ない。。冗談抜きに今晩中になんとか10首拵えないと、塔に入会して以来十数年間で初の欠詠ということになってしまう。うむ、明日も仕事であれだが、ぎりぎりまで粘るしかあるまい。。
チゲ鍋の似合ひさうな寒い一日でした。朝からの仕事中、シューベルトもしくはメンデルスゾーンの知られざる交響曲かなと思はれるやうな管弦楽曲がずつと鳴つてゐて、休憩タイムにざつくりメモしました。仕事を終へて、定食屋でチゲ鍋。ペーテル・バルトーク著『父・バルトーク』(スタイルノート)と春日太一著『あかんやつら』(文藝春秋)を無性に読みたい心持ちです。
久しぶりの休みの今朝。庄司紗矢香さんの弾くチャイコフスキー作曲『ヴァイオリン協奏曲ニ長調』https://www.youtube.com/watch?v=N3YKSVHWNpw&feature=youtube_gdata_playerを聴きながら、昨晩仕事から帰ってくるとポストに届いていた歌誌『塔』2013年11月号をあらためてぱらぱら見、気になる歌や記事を読んでいました。
24頁。下段。関野裕之さんの作品から。
黄の蝶の空より降りて街に消ゆかつて戦の終わりたる朝 関野裕之
なぜこの作品に惹かれるのか。作中背景には恐らく「再び不幸な恐ろしい戦争時代へ突き進むのではないかという不穏で絶望的な空気」が濃厚にあり、そんななか、かつて長く苦しく不幸な戦争を漸く終結させた日付が巡ってきて、作中主体はその日の朝天上のどこかから「黄の蝶」が降りてきて街に消えていく様子を見る。「黄の蝶」はまことに小さくひらひらしていて頼りにならなさそうですが、作中主体はなにかそこに奇跡のような「希望」を 見出だしているのかもしれません。