カームラサンの奥之院興廃記

好きな音楽のこと、惹かれる短歌のことなどを、気の向くままに綴っていきます。

今晩の《FTANKA合評会》のこと

2005-11-26 21:59:27 | Weblog
 知り合いの方が日記に書いておられました。

                ☆

《FTANKA合評会》
今晩(11月26日)23時~25時。
http://ftanka.net/tea/chat.cgiにて。

FTANKA11月歌会のリアルタイム合評会です。

どうぞ、おいでませ(^^)。

                ☆

 どんな合評が行なわれるのか興味を惹かれます。。。
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天ぷら《天峰》(メモ)

2005-11-26 13:31:31 | Weblog
 知人がオススメの下駄履きで行かれる町のおいしい天ぷら屋さんだそうです。
 

天ぷら《天峰》
   
東京都世田谷区砧8-13-8 03-3415-3885
水曜定休
12:00~13:30/17:00~20:30(土日祝は昼時間営業は休み)

http://aq.webtech.co.jp/restmtp0.html#TMIN

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2004年 8月 

 *才巻海老・頭、きす、めごち、烏賊の紫蘇巻、穴子
 *コーン、椎茸海老詰め、茗荷
 *野菜サラダ胡麻ドレッシング
 *小天丼

[AQ!]
 駅は祖師谷大蔵だが賑やかな商店街ではなく、“静かな住宅街の中の一軒”くらいの言い方が似合いそうな場所。小体な、佳き店。今日はカウンター満席につきテーブルだけど、今度はカウンターで来ようね、って感じ。
 野菜サラダの胡麻ドレッシングや烏賊紫蘇巻はある種典型的だが、この辺りって、天一出身のメルクマールなのだろうか?

[へべ]
 天丼を選んで悔いなし
 こんどはカウンターで来ようね♪

[AQ!]
 今日は天丼! 天丼と天茶の分かれ道…、何でだか「こっち!」って決まる時は、あるね。『コンガリ系だと天丼でサラッと系だと天茶』、って訳ばかりでもないのだが。天バラがある店だと、さらに惑わしいが。
 シャルドネはラブレロアでした。

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2004年11月 

 *才巻海老・頭、きす、沙魚、烏賊の紫蘇巻、帆立、牡蠣海苔巻、穴子
 *銀杏絹莢、椎茸海老詰め、茄子、百合根、アスパラ
 *野菜サラダ胡麻ドレッシング
 *小天丼

[AQ!]
 鱚が美味しかった。毎日築地へ行くという御主人、この辺りからだと大変ですね。

[へべ]
 海外から日本への帰国便に乗るため航空会社のカウンターに並んでいると、ヒマなこともあって、周囲の日本語会話が耳になんとなく入ってきます。「あーもう早く日本帰りたい~」「お前、帰ったらまず何食いたい?」「オレ鮨すし寿司!スシ食いてー」ってな感じで。ちなみに上記は年配の男女じゃなくて、地方出身とおぼしき若者たちの会話でした。どこまで帰るのかなー。
 …ってなわけで、当家の場合、帰国のこの日はなんとなく天麩羅です。蕎麦もいいけど、早めの夕食に蕎麦だとはんぱな時間に小腹がすいて眠れなくなったりしそうなので。こんなとき、わりと近所にこういう天麩羅やさんがあるのは、なんともありがたや。ビバ天麩羅!
 この日いただいた中では、鱚が出色の旨さでした。ひょっとして、前に来たときもそうでしたっけ? 普通は鱚って小ぶりでホロホロっとはかなげなイメージなんですが、ここのはわりと立派なサイズで、ホロホロとした鱚らしさはもちろんのこと、味や香りがくっきりしていて印象的。シメは断然、天丼です。ごちそうさまでした。
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メモ。芥川紗織さんの画業。

2005-11-26 09:40:33 | Weblog
 画家芥川紗織さんのこと。メモ。

 画像は、芥川紗織 《神話より(4)》 1956年。栃木県立美術館所蔵。

                ☆

http://www.art-museum.city.nagoya.jp/2002/meihin3-1.html

 名古屋市立美術館の解説を、以下、引用させて頂きます。

 《芥川紗織の芸術》

 芥川紗織は1924年、愛知県豊橋市に生まれ、東京音楽学校(現東京芸術大学)声楽科を卒業、在学中に同級生の作曲家・芥川也寸志と結婚しました。「作曲家と声楽家は同じ家に住めない」ことから、自己表現の方法として1950年頃から、ロウケツ染めを野口道方、絵画を猪熊弦一郎の研究所へ行って習い始めます。第4回モダンアート協会展(1954年)で新人賞を受賞、その後養清堂画廊での初個展が大きな評判を呼び、期待の新人として注目を浴びるようになります。岡本太郎の誘いで第40回二科会第9室に出品し特待賞を受賞、「今日の新人・1955年展」(神奈川県立近代美術館)や河原温、池田龍雄、吉仲太造との四人展への出品など華々しい活躍をつづけました。こうした積極的な創作活動を続けたことが家庭生活に破綻を来たしたのか、1958年に二人の娘を残して芥川也寸志と離婚。翌年には経済的な自立を目指し、グラフィックデザインを学ぶためにアメリカへ留学し、その後同行の建築家・間所幸雄と再婚しました。しかし、以前の作風から一転して抽象的な絵画を描き始めた矢先、妊娠中毒症が原因で42歳の若さで病没しました。
 芥川紗織の画業を振り返ると、芥川の姓であるときと、間所(まどころ)の姓であるときとでは画風に大きな変化があることがわかります。芥川の姓のときは、ほとんど独学で絵画を始め、女性である自分を見つめた末に生まれたテーマを、ロウケツ染めという独自の方法で描いています。メキシコ壁画運動との出会い、夫・也寸志に同行したソ連旅行をきっかけに1955年から始められた「民話」「神話」シリーズでは、自画像としての「女」シリーズから発展して「男と女の物語」を古代神話・民話の世界に置き換え、強烈な独自のイメージを展開しています。渡米後、美術教育を受け、間所の姓となった紗織は、油彩の技法を習得し、《朱とモーブA》などの限定した色彩と形態で抽象的な絵画を描きました。これらの作品からは、自ら境遇に則して画風を変えていった、ひとりの女性画家のドラマチックな生涯の足跡を伺い知ることができるといえるでしょう。
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