![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/37/2d4b3a6e69e7641993ded5f581ec8937.jpg)
『太陽の坐る場所』を有楽町スバル座で見てきました(注1)。
(1)本作で主演の水川あさみをたまたまTV(注2)で見かけたものですから、映画館に行ってきました。
本作(注3)の冒頭は、現在から10年ほど前、高校時代の体育館の場面。
バスケットボールをドリブルしていた響子(古泉葵)は、後からやってきた今日子(吉田まどか)に対し、「お願いがあるの、私を閉じ込めてくれない?」と告げ、驚く今日子にさらに「だけど覚えていてほしいの、閉じ込められるのと閉じ込もるとは違うということを」と付け加え、最後に「太陽はどこにいても明るいの」と言いながら体育館内の倉庫に入っていきます。
場面は変わって、現在時点で、地方のラジオ局のスタジオ。
アナウンサーの響子(水川あさみ)が、リスナーからの手紙を読んで、リクエスト曲の「アマノ・イワト」(注4)のテーマ曲をかけます。
曲がかかっている間、響子は窓の外を見ながら「私は暗闇に怯える者たちとは違う」などと呟きます。
次いで、高校時代のクラスメートだった島津(三浦貴大:現在は、地方銀行の東京支店に勤務)から電話がかかり、響子は、彼が幹事役のクラス会への出席を促されますが、「都合が悪い」と断ります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/34/b901d533d3bf05d6278fc3596a809bf5.jpg)
さらに、場面は新作映画の記者発表の会場。島津は電話で、その映画に主役で出演する女優の今日子(木村文乃)に対し、クラス会への出席を求めします。ですが、響子と同様、「みなさんによろしく」と断られてしまいます。
場面は、再び高校時代に戻って、響子たちのクラス。
途中編入してきた鈴原今日子に対し、響子は、自分が皆から「キョウコ」と呼ばれて慕われていることから、「鈴原はとっても良い苗字。みんな、リンちゃんと呼びましょう」と宣言します。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/5c/219ddedbf2d5fcc385c2d4e19657ddda.jpg)
こうして本作は、現在、地味な地方放送局のアナウンサーをしている響子の姿を、東京で俳優として派手な活動をしている今日子と比べながら描き出しつつ、かつては、同じ高校の同級生であり、その時は響子の方が今日子よりもずっと輝いていたのに何故今こうなっているのだろうかと、高校生活を回想するシーンを挿入していきます。すると、そこに見えてきたものは、………?
本作は、二人の女性の高校時代とその10年後の姿との落差の根元にあるものを探り出そうとするサスペンス物の作りになっているとはいえ、そんな落差などどこにでも転がっているでしょうし、また見出される事実も他愛ないことのように思えますから、謎解きの要素は後退している感じがし、むしろ、東京と地方都市との落差の受けとめ方といった点に興味が湧きました(注5)。
(2)本作では、二人のキョウコの高校時代以降現在に至るまでの経緯は描かれておりません。きっと、現在の二人のキョウコと高校時代の二人のキョウコを鋭く対比させるために、意図的にそれ以外のファクターは描かなかったのでしょう。そして、それはそれでなかなか効果的ではないか、と思いました。
ただその結果、本作が、かなり観念的・図式的なものになってしまったきらいがある感じです。
言ってみれば、高校時代における響子と今日子との関係が、ある事件の受けとめ方を通じて大きく変化し、それがそのまま現在の状況になっている、というような図式でしょうか。
要すれば、特に主人公の響子が高校時代の出来事にずっと縛られ続けた感じです。
そういうこともありうるでしょうが、それにしては、その出来事というのが他愛ないものではないか、とクマネズミには思えてしまいます。
(3)ところで本作は、山梨放送局開局60周年記念作品ということで、山梨県関連のことがアチコチに見出されます。
まずは、本作の原作者・辻村深月氏と矢崎仁司監督が山梨県の出身者。
また、本作の主題歌「アメンボ」の作詞・作曲・歌唱は、山梨県出身の藤巻亮太(レミオロメン)によります。
そして言うまでもなく、本作の大部分の撮影場所は山梨県(注6)。
これまで拙ブログでも、クマネズミの親族に山梨県関係者がいることもあり、山梨県関連の作品を何度か取り上げてきました(注7)。
例えば、最近では、『ぼくたちの家族』。
でも、描き出された場所は東京のベッドタウン化しているところで、余り山梨県という感じがしません。
あるいは、『麦子さんと』でしょうか。
この作品になると「この映画の全体の約70パーセントを都留市内で撮影」とされていますから(注8)、山梨県的な雰囲気が漂っています。
そして、作品全体が山梨県を舞台にしていると言ったら、『もらとりあむタマ子』でしょうし、それに『サウダーヂ』でしょう(両作とも、甲府が舞台)。
本作は、東京の場面がいくつか出てくるにしても、大部分は山梨県が舞台とされていますから(本作で場所の特定は明示的にされていませんが)、『麦子さんと』とか、さらには『もらとりあむタマ子』類似の作品と言っていいかもしれません。
でも実のところは、特殊山梨県というよりも、東京以外の地方都市のいずれでも当てはまるような感じがしたところです(注9)。
冒頭近くで、ラジオ局の窓から駅のプラットホームを響子が見下ろすシーンがありますが、見える駅はどの駅と特定しにくい感じですし、また何度も登場する高校も、どこにでもよくみかける外観です(注10)。
あるいは、東京から甲府まで特急で1時間半ちょっとで行ける近さにありながらも、途中の山岳地帯のために(笹子子トンネルや小仏トンネルなどを通過しなくてはなりません)、まるで別の地域に着いた感じなるというようなことが(注11)、地元の人々の感覚に微妙な影響を与えて、それが本作にも絡んでくるということなのかもしれません(注12)。でも、山梨県で暮らしたことのないクマネズミにはそこら辺りまではよくわかりませんでした(注13)。
(4)渡まち子氏は、「ストーリーそのものは単調でパンチ不足。悪意も善意も中途半端では共感することも難しい。ただ、誰もが通過してきた青春時代の古い傷の疼きを、ほこりっぽい体育館にさしこむ光のようにぼんやりと思い出させてくれる作品だった」と述べて50点を付けています。
宇田川幸洋氏は、「辻村深月の原作にある心理的リアリティーが映画には不足」と述べて★2つを付けています。
(注1)現在は、新宿のK’s cinemaで上映中です。
(注2)フジテレビで10月19日に放映された対談番組「ボクらの時代」。
(注3)原作は、辻村深月氏の『太陽の坐る場所』(文春文庫)。
監督は、矢崎仁司。
(注4)原作によれば、今日子は、映画『アマノ・イワト』でアマノウズメノミコトを演じてその踊りを賞賛され、一躍注目を浴びることになります(文庫版P.40)。
(注5)本作の出演者の内、水川あさみは『RETURN(ハードバージョン)』や『大木家のたのしい旅行』、木村文乃は『ニシノユキヒコの恋と冒険』や『ポテチ』、三浦貴大は『私の男』や『永遠の0』で見ました。
(注6)劇場用パンフレットによれば、「撮影は山梨県内で15日間、東京都内で1日の合計16日間」とのこと。
(注7)以下では、このサイトの記事を参考にしました(その記事を見て、そう言えば『休暇』や『ゆれる』も山梨県が舞台となっていたなと思い出しました)。
(注8)このサイトの記事によります。
(注9)特殊山梨県というよりも地方都市ならどこでもいいのではという点は、『麦子さんと』でも感じたところですが、本作ではもっと感じたところです。
(注10)とはいえ、響子が山梨学院大学の入試試験会場から「試験の初日です」とレポートするのを見れば、舞台が甲府であることは分かりますし、あるいは、高校生らの話す甲州弁からも山梨県だとわかります。
なお、本作の方言指導は五諸川津平太氏(このサイトの記事に同氏が著した本のことが書かれています)。
また、甲州弁については、この拙サイトの「注2」で簡単に触れたことがあります(尤も、こんな記事もありますが)。
(注11)この点で、千葉県や埼玉県などの関東圏にある地方都市と甲府などの山梨県の都市と異なるのではないでしょうか?
(注12)東京と地方との落差については、例えば、今日子が響子に対して、「あなたは、どうしてこんなクラス会に出席してるの?あなたほどの人が」、「あなたはここで終わるような人じゃなかった」などと言います。東京で女優として活躍する響子からすれば、地方ラジオ局のアナウンサーは格下に見えるのでしょう。
そして、それに対して、今日子の方も、「恥晒しになりたいの。自分は18歳の頃にすべてを失った。正面から傷つくべきだと気がついた」などと、自分が格下の場所にいることを認めてしまっています。
また他の東京で暮らす女性たちは、「地元で開かれるクラス会では肩身が狭い。地元に残った人たちの焦燥感が凄い」とか、「田舎の話題は結婚」とか言ったりします。
こういった描き方にはなんら新味は見られないとはいえ、「地方創生」が声高に叫ばれている現在(あるいは「L型産業」の活性化でしょうか)、これから地方の意識がどのように変化するのか、あるいはしないのか、興味が持たれます。
(注13)なお、酷くつまらないことながら、ラストの方で東京から山梨に向かったはずの今日子の乗る車が画面の左から右に向かって高速道路を進行し、長いトンネル(今日子は「トンネルの数が27」などと言います)を出て車窓の左手に街が見えてくるというシーンには違和感を覚えました(別に、本作では、舞台となった地方都市が甲府と特定されていないので構わないとはいえ)。
★★★☆☆☆
象のブログ:太陽の坐る場所
(1)本作で主演の水川あさみをたまたまTV(注2)で見かけたものですから、映画館に行ってきました。
本作(注3)の冒頭は、現在から10年ほど前、高校時代の体育館の場面。
バスケットボールをドリブルしていた響子(古泉葵)は、後からやってきた今日子(吉田まどか)に対し、「お願いがあるの、私を閉じ込めてくれない?」と告げ、驚く今日子にさらに「だけど覚えていてほしいの、閉じ込められるのと閉じ込もるとは違うということを」と付け加え、最後に「太陽はどこにいても明るいの」と言いながら体育館内の倉庫に入っていきます。
場面は変わって、現在時点で、地方のラジオ局のスタジオ。
アナウンサーの響子(水川あさみ)が、リスナーからの手紙を読んで、リクエスト曲の「アマノ・イワト」(注4)のテーマ曲をかけます。
曲がかかっている間、響子は窓の外を見ながら「私は暗闇に怯える者たちとは違う」などと呟きます。
次いで、高校時代のクラスメートだった島津(三浦貴大:現在は、地方銀行の東京支店に勤務)から電話がかかり、響子は、彼が幹事役のクラス会への出席を促されますが、「都合が悪い」と断ります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/34/b901d533d3bf05d6278fc3596a809bf5.jpg)
さらに、場面は新作映画の記者発表の会場。島津は電話で、その映画に主役で出演する女優の今日子(木村文乃)に対し、クラス会への出席を求めします。ですが、響子と同様、「みなさんによろしく」と断られてしまいます。
場面は、再び高校時代に戻って、響子たちのクラス。
途中編入してきた鈴原今日子に対し、響子は、自分が皆から「キョウコ」と呼ばれて慕われていることから、「鈴原はとっても良い苗字。みんな、リンちゃんと呼びましょう」と宣言します。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/5c/219ddedbf2d5fcc385c2d4e19657ddda.jpg)
こうして本作は、現在、地味な地方放送局のアナウンサーをしている響子の姿を、東京で俳優として派手な活動をしている今日子と比べながら描き出しつつ、かつては、同じ高校の同級生であり、その時は響子の方が今日子よりもずっと輝いていたのに何故今こうなっているのだろうかと、高校生活を回想するシーンを挿入していきます。すると、そこに見えてきたものは、………?
本作は、二人の女性の高校時代とその10年後の姿との落差の根元にあるものを探り出そうとするサスペンス物の作りになっているとはいえ、そんな落差などどこにでも転がっているでしょうし、また見出される事実も他愛ないことのように思えますから、謎解きの要素は後退している感じがし、むしろ、東京と地方都市との落差の受けとめ方といった点に興味が湧きました(注5)。
(2)本作では、二人のキョウコの高校時代以降現在に至るまでの経緯は描かれておりません。きっと、現在の二人のキョウコと高校時代の二人のキョウコを鋭く対比させるために、意図的にそれ以外のファクターは描かなかったのでしょう。そして、それはそれでなかなか効果的ではないか、と思いました。
ただその結果、本作が、かなり観念的・図式的なものになってしまったきらいがある感じです。
言ってみれば、高校時代における響子と今日子との関係が、ある事件の受けとめ方を通じて大きく変化し、それがそのまま現在の状況になっている、というような図式でしょうか。
要すれば、特に主人公の響子が高校時代の出来事にずっと縛られ続けた感じです。
そういうこともありうるでしょうが、それにしては、その出来事というのが他愛ないものではないか、とクマネズミには思えてしまいます。
(3)ところで本作は、山梨放送局開局60周年記念作品ということで、山梨県関連のことがアチコチに見出されます。
まずは、本作の原作者・辻村深月氏と矢崎仁司監督が山梨県の出身者。
また、本作の主題歌「アメンボ」の作詞・作曲・歌唱は、山梨県出身の藤巻亮太(レミオロメン)によります。
そして言うまでもなく、本作の大部分の撮影場所は山梨県(注6)。
これまで拙ブログでも、クマネズミの親族に山梨県関係者がいることもあり、山梨県関連の作品を何度か取り上げてきました(注7)。
例えば、最近では、『ぼくたちの家族』。
でも、描き出された場所は東京のベッドタウン化しているところで、余り山梨県という感じがしません。
あるいは、『麦子さんと』でしょうか。
この作品になると「この映画の全体の約70パーセントを都留市内で撮影」とされていますから(注8)、山梨県的な雰囲気が漂っています。
そして、作品全体が山梨県を舞台にしていると言ったら、『もらとりあむタマ子』でしょうし、それに『サウダーヂ』でしょう(両作とも、甲府が舞台)。
本作は、東京の場面がいくつか出てくるにしても、大部分は山梨県が舞台とされていますから(本作で場所の特定は明示的にされていませんが)、『麦子さんと』とか、さらには『もらとりあむタマ子』類似の作品と言っていいかもしれません。
でも実のところは、特殊山梨県というよりも、東京以外の地方都市のいずれでも当てはまるような感じがしたところです(注9)。
冒頭近くで、ラジオ局の窓から駅のプラットホームを響子が見下ろすシーンがありますが、見える駅はどの駅と特定しにくい感じですし、また何度も登場する高校も、どこにでもよくみかける外観です(注10)。
あるいは、東京から甲府まで特急で1時間半ちょっとで行ける近さにありながらも、途中の山岳地帯のために(笹子子トンネルや小仏トンネルなどを通過しなくてはなりません)、まるで別の地域に着いた感じなるというようなことが(注11)、地元の人々の感覚に微妙な影響を与えて、それが本作にも絡んでくるということなのかもしれません(注12)。でも、山梨県で暮らしたことのないクマネズミにはそこら辺りまではよくわかりませんでした(注13)。
(4)渡まち子氏は、「ストーリーそのものは単調でパンチ不足。悪意も善意も中途半端では共感することも難しい。ただ、誰もが通過してきた青春時代の古い傷の疼きを、ほこりっぽい体育館にさしこむ光のようにぼんやりと思い出させてくれる作品だった」と述べて50点を付けています。
宇田川幸洋氏は、「辻村深月の原作にある心理的リアリティーが映画には不足」と述べて★2つを付けています。
(注1)現在は、新宿のK’s cinemaで上映中です。
(注2)フジテレビで10月19日に放映された対談番組「ボクらの時代」。
(注3)原作は、辻村深月氏の『太陽の坐る場所』(文春文庫)。
監督は、矢崎仁司。
(注4)原作によれば、今日子は、映画『アマノ・イワト』でアマノウズメノミコトを演じてその踊りを賞賛され、一躍注目を浴びることになります(文庫版P.40)。
(注5)本作の出演者の内、水川あさみは『RETURN(ハードバージョン)』や『大木家のたのしい旅行』、木村文乃は『ニシノユキヒコの恋と冒険』や『ポテチ』、三浦貴大は『私の男』や『永遠の0』で見ました。
(注6)劇場用パンフレットによれば、「撮影は山梨県内で15日間、東京都内で1日の合計16日間」とのこと。
(注7)以下では、このサイトの記事を参考にしました(その記事を見て、そう言えば『休暇』や『ゆれる』も山梨県が舞台となっていたなと思い出しました)。
(注8)このサイトの記事によります。
(注9)特殊山梨県というよりも地方都市ならどこでもいいのではという点は、『麦子さんと』でも感じたところですが、本作ではもっと感じたところです。
(注10)とはいえ、響子が山梨学院大学の入試試験会場から「試験の初日です」とレポートするのを見れば、舞台が甲府であることは分かりますし、あるいは、高校生らの話す甲州弁からも山梨県だとわかります。
なお、本作の方言指導は五諸川津平太氏(このサイトの記事に同氏が著した本のことが書かれています)。
また、甲州弁については、この拙サイトの「注2」で簡単に触れたことがあります(尤も、こんな記事もありますが)。
(注11)この点で、千葉県や埼玉県などの関東圏にある地方都市と甲府などの山梨県の都市と異なるのではないでしょうか?
(注12)東京と地方との落差については、例えば、今日子が響子に対して、「あなたは、どうしてこんなクラス会に出席してるの?あなたほどの人が」、「あなたはここで終わるような人じゃなかった」などと言います。東京で女優として活躍する響子からすれば、地方ラジオ局のアナウンサーは格下に見えるのでしょう。
そして、それに対して、今日子の方も、「恥晒しになりたいの。自分は18歳の頃にすべてを失った。正面から傷つくべきだと気がついた」などと、自分が格下の場所にいることを認めてしまっています。
また他の東京で暮らす女性たちは、「地元で開かれるクラス会では肩身が狭い。地元に残った人たちの焦燥感が凄い」とか、「田舎の話題は結婚」とか言ったりします。
こういった描き方にはなんら新味は見られないとはいえ、「地方創生」が声高に叫ばれている現在(あるいは「L型産業」の活性化でしょうか)、これから地方の意識がどのように変化するのか、あるいはしないのか、興味が持たれます。
(注13)なお、酷くつまらないことながら、ラストの方で東京から山梨に向かったはずの今日子の乗る車が画面の左から右に向かって高速道路を進行し、長いトンネル(今日子は「トンネルの数が27」などと言います)を出て車窓の左手に街が見えてくるというシーンには違和感を覚えました(別に、本作では、舞台となった地方都市が甲府と特定されていないので構わないとはいえ)。
★★★☆☆☆
象のブログ:太陽の坐る場所
酷く些細なことながら、この点に関して一言。
実際に中央道の笹子トンネルの次のトンネルを出ると、甲府盆地は進行方向左手に見えてきます。勝沼ICの辺りで真正面になり、中央道が甲府盆地を南西方向に進路をとると、ようやく甲府の市街地は右手に見えるようになります。
ただ、クマネズミも、これまで何十回となく自分の車で中央自動車道を通って甲府まで出かけていますが、確かに甲府盆地が真正面の方向に見えることは若干の間あるにしても、映画のように完全に左手に見えることはなかったように思うのですが?
映画のように、トンネルを出て画面の左から右に車が進むには、中央道がジグザグになっているいる必要があるのではと思えるところ、マップで見てもそのような箇所は見当たらないのですが?
確かに地図で見ても、よく分りませんよね。だから、実際に走ってみて下さいというしかないのです。特に慣れている道だと、無意識のうちに飛ばしがちでしょうから、トンネルを出てすぐ勝沼ICという感覚なのではありませんか?(笑)
そうそう、地図もよく見ると、高速の右側を中央本線が並行していますが、鉄道の方はまだトンネルの中です。右側がどういう地形になっているのか、クマネズミさんなら察しがつくのではありませんか?