映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

さよなら歌舞伎町

2015年02月11日 | 邦画(15年)
 『さよなら歌舞伎町』をテアトル新宿で見ました。

(1)『もらとりあむタマ子』で好演した前田敦子が出演するというので映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、大きな道路の脇にあるアパートの部屋のシーン。
 沙耶前田敦子)が、朝から窓辺でギターを弾きながら歌(注2)を歌っています。
 歌詞の中に「まわるベッドの上」とあるのを寝ている染谷将太)が耳にして、「今どき回るベッドなんてないよ」と言うと、沙耶は「なんで知ってるの?誰かと行ったの?」と咎めます(注3)。
 徹は「行ってない」と答えますが、沙耶は「だからあたしたちセックスレスなんだ」と応じます。
 その後、沙耶が、今日はレコード会社の人の前でライブをするという話をして(注4)、二人は自転車に乗って駅の方に向かいます(注5)。



 こんな具合に物語は始まりますが(注6)、本作では、主演の染谷将太の登場シーンは多いものの、前田敦子の登場シーンは、以降そんなにもありません(注7)。
 というのも、本作は、新宿歌舞伎町にあるラブホテル「HOTEL ATLAS」のある朝から翌朝までの1日を描いており、店長である徹やそこに働く従業員、それにそのお客たち達が織りなす様々の物語が集まったものとなっているからです(注8)。
 本作で映し出されるエピソードが随分と盛り沢山なために、やや焦点がボケた感じになります。ですが、ラブホテルを通して現代の日本社会の一面を描こうとの意図は、そうした試みがこれまでもいろいろなされているとはいえ(注9)、かなり成功しているように思われます。
 それに、苦い話がいくつも盛り込まれているものの、ロマンポルノ的要素(注10)を取り入れたこうした作品でありがちな湿った感じはあまりせずに(注11)、何よりも、本作の舞台である新宿歌舞伎町を靖国通りを隔てたすぐ近くに感じ取ることができるせいかもしれませんが、見終わってテアトル新宿の外に出ると、むしろ爽やかな感じがしてしまいました(注12)。

(2)本作は、脚本が荒井晴彦氏だという点でも興味がありました(注13)。
 荒井氏の脚本による作品をこれまでいくつか見てきましたが(注14)、政治的なもの、時代的なものを独自の視点(あまりクマネズミは賛成しないのですが)で色々潜り込ませていて、本作においてもどんな具合なのか気になったところです。

 以下は、脚本面で気付いたことを少々。
イ)一番目につくのは、徹とその妹・美優樋井明日香)が宮城県塩釜の出身で、両親が3.11の東日本大震災に遭遇して工場を失ったために、二人は学費が払えなくなり、結局、徹は沙耶に立て替えてもらい、妹もAVの仕事をしているという設定になっている点でしょう(注15)。
 確かに、こうした事例はありうるのでしょうが(注16)、特段そのような設定でなくとも、同じような状況設定にすることはできるのではないかと思われ、本作における3.11はなんだか取って付けたような感じがしてしまいます(注17)。

ロ)また、デリヘル嬢のヘナイ・ウンウ)が大久保通りを歩いている時に、在特会のデモ隊がヘイトスピーチしているところに遭遇する場面があります。
 この点について、劇場用パンフレットに掲載されたインタビューにおいて、荒井晴彦氏は、「歌舞伎町なら、当然、大久保は出てくるだろうし、ヘイトスピーチを横目に見て職場に行く韓国人のデリヘル嬢は、何を思うかと」と述べています。
 確かにそのとおりかもしれません。ただ、大久保通りと歌舞伎町との間には職安通りなどがあったりして、それほど接近している感じはしません。
 歌舞伎町の置かれている今の時代を描き出すために、果たしてヘイトスピーチが適当なものかどうかいささか疑問が持たれるのではないかと思います。

ハ)実際には撮影にあたり削除されてしまいましたが、雑誌『シナリオ』2月号掲載の本作のシナリオを見ると、上記(1)で紹介しました冒頭の場面の前に、もう一つのシーンが設けられています。
 そこでは、ラブホテルの前に徹が勤めていたグランドホテルでの出来事が描かれています(注18)。
 仮にこの場面から映画が始められたとしたら、本作のヒロインは、前田敦子ではなく、むしろデリヘル嬢のヘナを演じるイ・ウンウのように観客には受け取られたかもしれません(注19)。
 ヒロインを前田敦子にするためにも、このエピソードは削られたのではないでしょうか?

ニ)雑誌『シナリオ』2月号掲載の本作のシナリオでは、その時の時刻が様々の手段を使って分かるようになっています(例えば、壁掛けの時計とか、腕時計、タイムレコーダーの液晶画面など)。
 それが、本作ではあっけらかんとデジタル表示されるだけとなっています。
 加えて、シナリオでは、最初の表示が「09:42」で最後が「07:28」となっていて、本作がだいたい24時間を描いているなということがわかります。
 これに対して、例えば、朝、徹がラブホテルに出勤する時刻が、シナリオでは「11:58」となっているにもかかわらず、実際の映画では、徹がホテルに現れて小銭を借りにホテルを出て行く時刻が「10:43」とされているのです。
 また、ヘナがヘイトスピーチのデモ隊に遭遇するのが、シナリオでは「15:06」あたりとされているのに対して、実際の映画では「11:30」です。
 実際の映画における時間の進行が、シナリオよりも随分と早目になっているのがわかります(注20)。

(3)森直人氏は、「本作の試みは新宿というトポスの中でロマンポルノと現在の空気を緩やかに結ぶ事にあるのではないか」として★4つを付けています。
 日経新聞の古賀重樹氏は、「東京・新宿のラブホテルの1日を描いたこの群像劇がさわやかな感動をもたらすのも、綿密な脚本と鮮やかな演出があるからだ」、「ラブホテルという告白装置が、群像劇を成立させ、現代の日本を映す」として★4つ(見逃せない)を付けています。
 毎日新聞の勝田友巳氏は、「どうにもならない現実を受け止めて、それでも前向きに。希望を感じさせる終幕にかすかに残る苦さが、映画の味わいを深くしている」と述べています。



(注1)監督は、『きいろいゾウ』や『軽蔑』の廣木隆一

(注2)作詞・作曲が下田逸郎の「ラブホテル」。

(注3)徹は沙耶に、偽って大手の「グランドホテル」に勤めていると言っています。

(注4)沙耶は、3人でバンドを組んでいますが、彼女の話では、そのライブが上手くいってもメジャーデビューできるのは彼女一人だけのようです。

(注5)ギターケースを背負った沙耶が立ち乗りしている自転車を徹が漕いで、JR新大久保駅から新宿駅に向かう山手線の東側の道を二人は南に進んでいきます。

(注6)実際には、沙耶がギターを弾いているシーンと、沙耶と徹が自転車に乗っているシーンとの間には、他のエピソードの冒頭部分が幾つか挿入されています。

(注7)もう一つのシーンでは、沙耶が、レコード会社の竹中大森南朋)と一緒に件のラブホテルの部屋にいるところを徹が目にし、二人は言い合いをします(徹は、「マクラ営業かよ」と咎めますし、沙耶は「グランドホテルじゃなかったの?」と怒ります)。
 さらに、翌朝、花園神社で沙耶が徹と出会うシーンがあります(徹は塩釜に行くと言い、沙耶は「待ってるから」と答えます)。
 なお、染谷将太は、最近では『寄生獣』で見たばかりですし、前田敦子は『もらとりあむタマ子』の他に、『苦役列車』で見ました。

(注8)本作は、いわゆる「グランドホテル方式」といわれるものです。
 その点については、この拙エントリの(2)を参照してください。
 なお、そのエントリが取り上げた『シーサイドモーテル』は、ホテルの従業員がほとんど活躍しないという点で、元の『グランドホテル』と類似していますが、それから言えば、本作はむしろ三谷幸喜監督の『有頂天ホテル』と類似していると言えるでしょう。
 そして、ホテルの従業員に焦点を当てた作品としたら『グランド・ブタペスト・ホテル』が思い出されるところです。

(注9)例えば、見てはおりませんが相米慎二監督の『ラブホテル』(1985年)があります。
 なお、このサイトの記事からすれば、同作は、本作というより『シーサイドモーテル』類似の感じがします。

(注10)デリヘル嬢のヘナと客の雨宮村上淳)とのセックス描写は、随分と綺麗に撮られていると思います。



(注11)柳下毅一郎氏は、「実を言うとこの映画、どの挿話も深いところに触れることなくきれいに可愛く「いい話」としてまとめてしまう。妹がAV嬢なのも、恋人がホテトルやってるのも、深く傷つきせず悩むこともなく、かわいい音楽がかかって丸く収まってしまうのだ」と述べていますが、
 どうやら同氏は、従来型のベタベタ湿った感じのものがお好きのようです。

(注12)俳優陣では、染谷将太や前田敦子の他に、ラブホテルの清掃人役の南果歩(『わが母の記』や『家族X』で見ました)や、不倫をしている女刑事役の河井青葉(『私の男』で浅野忠信の恋人役でした)が印象に残りました。

(注13)実際には、荒井氏と中野太氏との共作(『戦争と一人の女』もそうでした)。
 雑誌『シナリオ』2月号掲載の座談会で、「荒井さんと中野さんでシナリオを書く手順というのは?」との質問に対して、中野氏は、「24時間の群像劇にするというのは、荒井さんから言われていて、それで参考資料を渡されて下書きを書いて。それを荒井さんがダーッと直していく」と答えています。

(注14)荒井氏が書いた脚本の映画としては、『戦争と一人の女』や『共喰い』、それに『海を感じる時』を見ています。

(注15)劇場用パンフレット掲載の「廣木隆一(監督)✕荒井晴彦(脚本)対談」において、荒井氏は、「群像劇なんだけど、ラブホの若い店長を主役っぽくしたいというので、そのバックグラウンドを作るのに、じゃあ震災絡みにしようかと」と述べています。
 ただ、同パンフレット掲載のインタビューにおいて、廣木監督は、「最初の脚本では、染谷の出身は東北ではありません。これは宮城に変えてもらいました」と述べています。
 要すれば、監督のアイデアを脚本家が具体化したということでしょう。

(注16)上記「注15」で触れているインタビューにおいて、廣木監督は、「津波の被害でデリヘルに勤めるようになった人もいると聞いた事あるんですよ」と述べています。

(注17)本作のラストでは、徹は塩釜に帰るために高速バスに乗り込むのですが、後部座席にはすでに沙耶が座っているのです。徹は、そのことに気付かずに席に座りますが、わざわざこのようなストーリーにする意味はどこにあるのでしょう?
 劇場用パンフレット掲載のインタビューにおいて、荒井氏は、「「東北へ」って(テロップ)出したかったくらい。「東北を忘れるなよ、お前ら」って」と述べていますが、そんな直なスローガンを出してどうなるというのでしょうか?

(注18)その出来事で、徹とベッドメイク担当のヘナはグランドホテルを解雇されてしまいます。

(注19)これはあるいは、劇場用パンフレット掲載のインタビューにおいて、荒井氏が「(最初)掃除のおばさんがいろんなカップルを見る話にできるかなと思ってた。そこに韓国人の女の子で何か企画できないかという話があって」云々と語っている話を引きずっているのではないか、と推測されます。

(注20)これは、廣木監督が、ラブホテルの清掃人の南果歩が匿っている男(松重豊)が犯した事件の時効が成立するのを描き出そうとして、全体の時間をシナリオの24時間から半分の12時間に切り詰めようとしたことの名残ではないかと思われます(雑誌『シナリオ』2月号掲載の「『さよなら歌舞伎町』座談会」における荒井氏の発言からの推測)。
 結局、時効が成立するのを見守る南果歩と松重豊の二人のシーンは、エンドロールの後に挿入されています。



 映画館の係員が、映画の上映に先立ってそのことに何度も注意したために、クマネズミもそのシーンを見ることが出来ましたが、本作は、徹と妹・美優が塩釜行きのバスに乗ったところでジ・エンドで十分ではないかと思います。



★★★★☆☆