冷蔵庫の具合が悪くなった。この暑さで八年目だから壊れてもおかしくなく、買い換えも選択肢と思ったが、家内は修理を選んだ。係の人が鞄を抱えてやってきて三十分ほど調べ何とかという基板の不具合だという。交換の修理代は二万なにがしですがどうしますかと聞かれ、当然お願いしますと交換してもらった。この修理でどの位持つかはわからないが、さほど高い修理代とは感じなかった。
最近は基板やユニットの交換が修理の定番になっている。実際の故障は半導体の短絡、抵抗の断線やコンデンサーのパンクといった高々数十円の部品の故障なのだろうが、そうした部品の交換はかえって故障の発見に手間取るし交換も難しく現実的ではないのだ。基盤やユニットそのものの交換は、異常のない数多くの部品もそっくり交換するので無駄で高くつくように思われるが、現実には効率的でむしろ割安なのだ。今回の交換でも多分手数料の方が高いはずだ。
医療で病気に対する向かい合い方にも似たような流れがあり、例えば心臓や腎臓など機能不全になるとそれを細かく特定せず、慢性心不全慢性腎不全として捉え、大まかに治療する方法が導入されている。心臓や腎臓の専門医でなくても、対応がわかりやすく現実的なのだ。こうした流れには発想の転換もあるが、臓器の機能を簡単に測定出来る検査法の普及も大きく貢献している。
治療の方も、細かい細胞単位のものは専門的な知識検査が必要な割には効果はもう一つで究極的には、実際には難しい特に心臓では難しいのだが、心臓移植や腎臓移植などといった臓器交換の方法も取られるようになっている。交換臓器が容易に手に入るようになれば、交換が標準治療になるかもしれない。そうすると人生に対する考え方にも変化が出て、同調圧力と正義を装う監視がある日本社会では思わぬ副反応が出て来るかもしれない。