駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

はしりのフォーク世代

2009年04月25日 | 世の中
 ほとんど音痴と言われているが、聞くのは好きだ。懐かしいのは小学唱歌なのだが、青春の空間にはジョーン・バエズから吉田拓郎までフォークソングが流れていた。
 ジョーンというのはおーいとジョンを呼んでいるわけではない。ジョン・デンバーのジョンは犬のジョンと同じ男のジョン。ジョーンというのは僅かに微かにォの音が入っており、ネイティブスピーカーはジョーンと延ばさなくてもジョォンで区別が出来る女性の名前なのだ。
 ドナドナドンナは力強く美しい。今どこで何をしてはるやろかと思うが、きっと母になり婆になってもフォークの心を忘れず地道に生きておられるだろう。
 吉田拓郎のコンサートを聞きに行ったこともなければレコードを集めたこともない。それでも、彼には同時代のよしみを感じ、そうだそうだったと懐かしく聞く。
 フォークソングは若者の心の詩に親しみやすい単純なメロディを付けて、ギターを奏でながら歌われた。歌詞はノンシャランからメッセージまで色々あったが、どこか若者の思いが込められ青春の香りがした。
 フォークシンガーにはアマチュアの感覚があり、どうもそれが仕事という感じがせず、若者が土日に包丁や聴診器やハンドルをギターに持ち替えて歌うもののような気がしていた。
 歌は世に連れ世は歌に連れ、世の中が変わり歌も変わった。今の時代フォークソングに変わる歌はなんなんだろう。

 花は何処へ行った、と思う。先駆けだった何でも見てやろうの小田実もニャロメの赤塚不二夫も逝ってしまった。自分の青春に重なるせいだけでない、なぜか青春の息吹があったあの時代をフォークソングを耳にすると思い出す。

 
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将棋名人戦第二局連想

2009年04月24日 | 小考
 将棋名人戦第二局は郷田が競り勝った。これで挑戦者が棒に負けることはなくなった。と同時に第三局で郷田が勝てば、ひょっとする可能性も出てきた。
 第一局は羽生が余裕を残して勝ったので郷田のタイトル奪取の可能性はほどんどなくなったように書いたが、どうも第二局を見ているとがっぷり四つから、挑戦者は相手の寄りを見切って堪え、最後は体を入れ替えて腰を落として逆に寄り切っている。今回の将棋は非常に難しく、長手数ながら一手一手の意味合いが深く、こうした将棋に勝つと郷田将棋に火が付く可能性があり、予断を許さなくなった。郷田は相手が誰かよりも自分の気分に影響される棋士なので(と私は思う)、自分の将棋に集中し無心になると羽生には怖い相手だと思う。
 ゲームには相手が居るので、論理的に見える碁や将棋でも、昔から敵を知り己を知れば百戦危うからず言われるように、相手のことを知らないで勝つのは難しい。 この場合の相手を知るというのは相手の考え方とか構想の傾向とか心の動きのことで、別に甘党だとか辛党だとかのことではない。もっとも昔、豆腐は絹ごしと木綿ごしとどちらが旨いかで争った大棋士もおられたようだが。
 羽生はこの点でも優れており、将棋に強いだけでなく相手を感じる能力とそれに対応する能力(ほとんど無意識に)が抜きん出ている。
 ここに書いて差し支えるといけないが、と言ってもプロが読むわけがないが、郷田は他のプロが見たら些細なところが妙に気になってしまう所があり、これは加藤先生に似ているのだが、それが勝負の上でマイナスに働くことがあると見ている。波に乗ればその欠点が消えると思う。
 さて、相手を知り己を知ればという孫子の兵法だが、これは医療のような人間相手の仕事では不十分と私は思っている。医療では相手(患者さんに)に知って貰うということが実は非常に大切なことなのだ。勿論相手(患者さん)が自分自身のことを知ることも欠かせない。これは医療に限らず、信頼を基調とする仕事の要諦と思っている。
 どうも権力の座にある人にはこれがしばしば欠けているように見えるのだが、いかがなものか。
 
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お写真と違うようですが

2009年04月23日 | 世の中
 すき家は吉野家よりもメニューが豊富だ。丼の上に乗る具の組み合わせも、カレーと牛丼のあいがけとか客の希望をそのまま実現してくれている感じだ。当然、客としてはあれかこれか楽しく迷うわけだが、その時参考になるのがメニューの写真だ。ところがどうもこれが問題で、実物とちょっと違う。写真を見て味を想像し、八宝菜と牛丼のあいがけを注文すると出てきた物は予想と様子が異なる。お値段から考えれば写真のようなものが出てくるはずはないのだが、そう思っても違うじゃんと言いたくなる。
 その点パスタのチェーン店の方がずれが少ない。パスタの方が色合いが派手で元々美味しく写りやすいのかもしれない。
 しかしまあ、食べ始めれば味が問題で、見かけのことは忘れてしまう。
 これがお見合い写真となると微妙だ。とにかく会ってみようかという気持ちにさせるのが一番の狙いなので、ベストショットが多い。確かにこう見える瞬間が一日のうち数分あり、フェイクとは言えないかと納得するようだ。会ってしまえば、別の魅力も見いだされ、いつの間にか写真は棚上げになってしまう。
 写真というのは真実を写すと感激して命名されたと想像するが、実は真実の瞬間という名手の写真はごく少数で、瞬間の真実を写した物がほとんどなのだ。
 旅行の写真などは思い出の縁となるが、メニューやお見合いの写真は要するに別の趣向で選択のきっかけとして提供され、所期の目的を達すればその正確性はさほど問題にされないようだ。
 我々はお見合いの世話はしたことはあるが、見合いの経験はなく、一回ぐらいはしたかっっと言い合っているが、残念ながらいや幸いにかな、もうその機会はないだろう。
 
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ほとんど互角

2009年04月23日 | 小考
 地球上の生命体の中で人類は圧倒的な優位を持って増殖してきた。それに人類に恵まれている頭脳力が関与しているのは間違いないだろう。そう考えると人類の歴史の風景も違って見えてくる。何万年の昔はさておき、かなり詳しく知られているこの数千年、詳細な記録が残っているこの数百年の歴史も人類繁栄への道筋だったのだろうか。
 小学校の校長先生が二十一世紀まで生きる君たちと呼びかけられたのを鮮明に覚えている。確かに有り難いことに二十一世紀まで生きた。そしてやがて十年、二十世紀を振り返り様々な思いが巡る。町医者の私ごときの思索は取るに足りないが、広く深い分析研究が学術の世界で為されていると思う。そうした研究学問が明日に光を投げかけることができるだろうか。
 と、大上段に振りかぶって書いたのは、今更ながら民主主義とはなんぞやと訝かっているからだ。民主政治と衆愚政治との違いは紙一重あるかどうか。民衆は愚にして賢と言われるが、本当に五分五分のようだ。
 診察室から見れば、症状のない病気を予め防ぐ指導を多くの患者さんはなかなか実行できない。痛みやしびれが出てから、ようやく動き出す人が多い。あるいは医者でなく、身内や近所のおばさんにあるいはマスコミで指摘されてやっと腰を上げる。勿論、これでは手遅れになることが多いし、注意しないと近所のおばさんの理解やマスコミ報道は単純化され過ぎており、間違いの元になることがある。
 医者の説明努力が足りない部分もあるが、こうした現象が絶えないのは人間が難しい理屈でなく単純な説明でしかも近しい人に言われて動くように、そして最終的には痛みなどの自覚症状を感じて動くように出来ているからだと思う。人間の平均的なそうした特性を考えると、果たして平均的全体的な雰囲気に寄りかかって判断して良いだろうかと心配になる。
 賢者のつもりもないし、偉そうにしているつもりもないが、時々垣間見るある種のテレビ番組のくだらなさには恐ろしくなる。これで良いのだろうかと思うのは不遜だろうか。
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立場あるいは体型の違い

2009年04月22日 | 医者
 S先生は4年前50才で総合病院の部長を辞め開業された。どんな事情があったか、聞けばどうも20年前の私と似たような心境の変化があったらしい。
 15、6年前、総合病院に赴任された頃は中肉だったが、今は十数キロ体重が増え頭も薄くなられ、メタボな体型になっておられる。
 かなり年下なのだが、何となく勤務医は開業医よりも上位と言うと言い過ぎだが、そうした雰囲気がどこかにあり、まあ丁寧な言葉使いで年に数回お話する程度だった。そこが不思議というかそれが世の中のというもので、同じ開業医となれば年齢が物を言うようになり、今度は彼が私に丁寧な言葉遣いをするようになった。
 ここまでは、そんなものかなというところなのだが、実はS先生とても楽しい人であるのが分かってきた。なんだかウマが合い、最近はお互いタメ口を利くようになった。
 体型から想像される通り美食家で、「菜の花」の桜饅頭が美味いねと言ったら目を輝かし、親がまだ住んでいますからお送りしましょうかと言われる。先生は当地には珍しく西湘が故郷なのだ。良い所ですねと言うと、いえいえ過疎化が進んで駄目ですよと言う。まあ旅人と住んでいた人とでは視点が違うのだろう。
 私は毎日様々な患者さんに会い、その訴えを吟味する必要に迫られ人品を観察する訓練を積んでいるのだが、外れることも時々ある。S先生は事務的でやや不機嫌な印象があり社交的ではない印象を持っていたのだが、実像は違っていた。
 それがどうも、実際に少し性格が変化、あるいは性格の表現形が変わったらしい。勤務医から開業医という立場の変化によるものか、あるいは恰幅よくなったという体型の変化によるものか。おそらく元々持っておられた循環気質が立場と体型の変化が相俟って外へ出てきたというのが正確なところだろう。楽しく話のできる仲間が増えるのは嬉しい。

 
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